2002年、奈良。28歳の男性が、父の会社に戻ってきました。
勤めていた富士通を2年で辞めての転身です。ところが、家業に入りたいと伝えたとき、父の返事は短いものでした。
「アカン」
その会社は、1716年に奈良で生まれた中川政七商店です。麻の布「奈良晒」を商いの始まりとする、300年近く続いてきた老舗でした。息子はのちに、入社する前の自分をこう振り返っています。
「ノープランどころか、家業が何をしているかもよく分かっていませんでした」
その男性、中川淳が会社に入ってから16年で、売上は4億円から52億円になります。しかも会社は、工芸の業界で初めて、自分でつくって自分の店で売る「製造小売り(SPA)」の形をとった会社として評価されました。
いちばん古い会社が、なぜいちばん新しい売り方を選べたのか。その答えは、赤字の麻の事業を「自分の責任で倒産させたい」と考えた、一人の後継ぎの覚悟にあります。
- 1716年 奈良で創業。麻の布「奈良晒」を商う
- 1985年 生活雑貨のブランド「遊 中川」を始める
- 2002年 中川淳が入社。直営の店を持つと決める
- 2003年 ブランド「粋更」を始める
- 2006年2月 表参道ヒルズに「粋更」の店を出す
- 2007年 ビジョン「日本の工芸を元気にする!」を掲げる
- 2008年 中川淳が13代社長になる
- 2009年 工芸の会社の経営を立て直す仕事を始める
- 2015年 ポーター賞を受ける
- 2018年 千石あやが14代社長になる
黒字の茶道具、赤字の麻
中川政七商店は、江戸時代の中ごろ、手で績み、手で織った麻の布を商うことから始まりました。武士の裃にも使われた布です。明治から大正にかけては、茶道具が商いの柱の一つになっていきます。
淳が入ったころの会社は、二つの事業でできていました。父が手がけた茶道具と、母が手がけた麻の生活雑貨です。会社全体の年商はおよそ12億円で、その7割が茶道具でした。
茶道具は黒字でした。ところが、麻の事業は売上4億円で、赤字です。父は当初、麻の事業を節税になればくらいに考えていたのではないか、と淳は見ています。その赤字が、いつのまにか見過ごせない大きさになっていました。
麻の雑貨のブランド「遊 中川」は、ほとんどを問屋や百貨店への卸で売っていました。売上のおよそ8割が卸で、自分たちの店で売るのは2割ほど。奈良に2店、東京に1店あった店も、直営の売り場というより、商品を見せるための場所でした。
淳は、自分から麻の部門に移ることを願い出ます。そこで目にしたのは、つくった数も、作りかけの品の数も分からない現場でした。
「何を聞いても、誰からも納得のいく答えが返ってこない状態でした」
富士通でシステムの仕事をしてきた淳にとって、生産を管理するという考え方そのものがない職場は、驚きだったといいます。
「自分の責任で倒産したい」

このままでは、麻の事業はもたない。淳は、そう考えていました。そして、ここで腹をくくります。
「どっちみち倒産するなら、自分の責任で倒産したい」
問屋に卸し、百貨店に並べてもらう。そのやり方では、売れるかどうかは他人の手に委ねられます。売れなかった理由も、こちらには分かりません。淳は、のちにこの決断の理由を、こう言い表しています。
「お客さんの前まで自分たちで行って、それで売れなかったら自分たちが悪いよね」
別の場では、同じ思いを「良いものであっても、伝わり方、伝え方が悪ければダメだ。自分たちでそれをやろう!」とも語っています。いいものをつくっていても、それが届かなければ、ないのと同じ。その伝え方まで、自分たちで引き受けようとしたのです。
ここが、中川政七商店の「そのとき」です。淳は、直営の店を持ち、自分たちで直接お客様とつながる形をつくると決めました。商品をつくるところから、お客様に手渡すところまでを、自分たちで握る。工芸の世界では、まだ誰もやっていないやり方でした。
父は、最初は反対しました。
私の見方では、この決断の芯は「売れなかったら自分たちが悪い」と言い切れるところにあります。責任の置き場所を、自分たちの手の届くところへ移した。直営の店は、売り場である前に、そのための仕組みでした。
100個つくってくれる工房を、10軒探す

言葉にするのは簡単でも、やってみると壁は高いものでした。
製造小売りの強みは、大きな量をまとめて頼み、原価を下げられることです。ところが工芸の世界では、一つの工房がつくれる数に限りがあります。淳の言葉を借りれば、「100個作ってくれるところを10件探す」必要がありました。
それでも、店は少しずつ増えていきます。2002年には伊勢丹新宿店に、2003年には玉川髙島屋S・Cに店を出しました。
同じ2003年、淳は新しいブランド「粋更(きさら)」を立ち上げます。日本の暮らしの道具を、贈り物の包み方まで気を配って届けるブランドです。インテリアの見本市に30点ほどを並べました。けれども、どこも置いてくれません。粋更は、2年ほど赤字が続きます。
流れを変えたのは、2006年2月でした。東京・表参道に新しくできた商業施設「表参道ヒルズ」に、粋更の店を出したのです。およそ80のテナントの募集に、数千件の問い合わせが集まったといわれる施設でした。その一角に、奈良の老舗の新しいブランドが並びました。
淳は、店というものの力を、こう語っています。
「ショップほどこのタッチポイントを数多く有しているものはない」
お客様が商品を手に取り、店の人と話し、包んでもらって持ち帰る。そのすべてが、ブランドを伝える場になる。卸に頼っていたころには持てなかった接点を、会社は店ごとに手に入れていきました。
7割が「不安」と答えた会社
店が増えると、今度は社内に問題が出てきます。
2006年、淳は社員にアンケートをとりました。会社の先行きに不安があるかと聞くと、7割が「はい」と答えます。外から見れば、表参道に店を出し、伸びている会社でした。それでも中にいる人には、会社がどこへ向かっているのかが見えていなかったのです。
「話さなければ、わからないのだな、と思いました。」
翌2007年、会社は初めてのビジョンを掲げます。「日本の工芸を元気にする!」です。自分たちの商品を売るだけでなく、工芸という業界そのものを立て直す。淳は、ビジョンの決め方について、こう話しています。
「ビジョンは絶対に合議では決まらないと思っています。」
ビジョンは、掲げただけでは社内に根づきません。中川政七商店では、社員に浸透するまでに5年ほどかかったといいます。淳は社員に「現状否定、自己肯定」という言葉を伝えてきました。いまの自分たちは30点くらいだと思って、今の形は疑う。けれども、自分たちならできると信じる。300年続いた会社で、あえて今を疑えと言い続けたのです。
ビジョンは、人を集める力にもなりました。2011年ごろから採用の状況が変わり、募集を出すと1週間で100人近い問い合わせが来るようになったといいます。採用サイトに掲げた言葉は「300歳、育ち盛り」でした。
2008年、淳は13代の社長になります。2009年には、ビジョンを形にする仕事を始めました。工芸の会社の経営を立て直す、コンサルティングです。
最初の相手は、長崎県波佐見町の焼き物の会社、マルヒロでした。売上はいちばん多いときで2億円ありましたが、そのころは8,000万円にまで落ち、借入は1億3,000万円にのぼっていました。中川政七商店は、自分たちが店づくりとブランドづくりで覚えたやり方を、そのまま持ち込みます。マルヒロの売上は、のちに3億円まで戻りました。
つまり、中川政七商店は、自分の会社を立て直したやり方を、ほかの会社にも手渡し始めたのです。赤字の麻の事業で学んだことが、業界の財産に変わっていきました。
新潟県三条市の包丁の会社、タダフサにも同じように入りました。包丁のそろえ方を見直し、家庭で使う「基本の7本」として提案したのです。淳は、こうした会社を産地の「一番星」と呼びます。
「その地域に、タダフサのような“一番星”ができれば、」
2番手、3番手は見よう見まねでついてくる。一つの会社を立て直せば、その産地が元気になる。淳は、それが産地を元気にする秘訣だと話しています。
2010年には、会社の名前そのものを冠したブランド「中川政七商店」の店も始めました。自社の商品と、ほかの工芸の会社の商品を、半分ずつ並べる店です。自分たちの店を、ほかの作り手が世に出るための入り口にもしたのです。年に3回開く展示会「大日本市」では、全国の工芸の会社と、それを仕入れたい店とを引き合わせています。
数字が示したもの
2015年、中川政七商店は、優れた戦略の会社に贈られるポーター賞を受けます。評価されたのは、工芸の業界で初めての製造小売りという形でした。
このころの数字を並べると、変わったものがよく見えます。2012年の時点で、年商は24億円、社員は200人になっていました。「遊 中川」の直営の店は23店、扱う商品の数は以前のおよそ5倍の2,500点です。2015年2月期の売上高は42億8,000万円、社員は305人。直営の店は43店になっていました。売上の7割が直営の店、2割が卸、1割が通信販売です。入社したころは8割が卸だった会社で、売り方の比率がほぼ逆になりました。売上高に対する営業利益の割合は8.5%で、同じ業種の小売りの平均4.6%を大きく上回っています。
2016年、会社は創業300年を迎えます。淳は「十三代 中川政七」の名を継ぎました。翌2017年には、全国の工芸の産地の会社が集まる「日本工芸産地協会」をつくっています。一社の取り組みを、産地どうしのつながりへ広げようとしたのです。いま、店は全国におよそ60あります。
淳は、伸び方そのものについても語っています。年に10%から15%の伸びを、10年あまり続けてきた。「急成長したことは一度もなく」と本人が言うとおり、急に大きくなった年はありません。
一つの店、一つの工房、一つの取引先を積み重ねた結果が、16年で13倍という数字でした。
社長の席を、外の人に
2018年、中川政七は、社長の席を社員に譲ります。14代社長になった千石あやは、2011年に大手の印刷会社から転職してきた人でした。創業家の外から選ばれた社長です。
打診を受けたとき、千石は最初、冗談だと思ったといいます。
「いやいや、冗談ですよね?」
千石は、この交代を、人を入れ替えることではなく、組織を変えることだったと振り返っています。会社が大きくなり、一人の社長がすべてを見渡すことはできなくなっていました。部署ごとに課題を見つけ、自分たちで戦略を立てる会社へ。千石は「社長を中川から私に変えるというより、組織自体を変える必要があったんです。」と語っています。
中川政七はその後、会長としてかかわり、2025年2月28日に会長も退きました。入社から23年、50歳でした。退いた理由を、本人は「ビジョン達成のため」と書いています。上場の直前まで準備を進めながら、上場するとビジョンから遠ざかると判断して取りやめたことも明かしています。
ビジョンと売上・利益をどう比べるか。その割合を、中川政七は「51対49」と表してきました。ほんのわずかでも、ビジョンが上回る。千石もまた、会社全体の共通の考えを「利益よりビジョンがギリギリ競り勝つ」と言い表しています。利益を軽く見ているのではありません。利益がビジョンを追い越すと、会社の軸がぶれてしまう。だから、どれほど儲かる話でも、ビジョンに合わなければ受けない。社長が代わっても、物差しは同じ場所に置かれたままです。
私は、ここに社長交代の本当の意味があると考えます。社長を譲るとは、人を替えることではなく、物差しを渡すことでした。創業家の名を継いだ人がいなくなっても、会社が迷わずに済むように、物差しを言葉にして社内に残しておいたのです。
払ったもの
ここまでの道のりで、手放したものもあります。
新しいブランドは、すぐには売れませんでした。粋更は2年ほど赤字が続き、転機になった表参道ヒルズの店も、2012年には閉じています。工房を一つずつ探してつくる仕組みは、時間もかかります。直営の店を持てば、売れ残りも、店の家賃も、そこで働く人の給料も、すべて自分たちで負うことになります。卸に任せていたころには、背負わずに済んでいた重さです。
そして、会社が向き合ってきた業界そのものが、縮み続けてきました。工芸の市場は、1983年の5,400億円をいちばん上に、いまは900億円ほどになっていると、中川政七は話しています。伸びる会社が一つあっても、業界全体の流れは厳しいままです。だからこそ、会社は自分の店を増やすだけでなく、ほかの工芸の会社の立て直しにまで手を広げてきました。
社史の目で見ると
いちばん古い会社が、なぜいちばん新しい売り方を選べたのか。
私は、中川政七商店が「売れなかった理由を、自分の手の届くところに置いた」からだと考えます。卸に任せていれば、売れない理由は外にあると言えました。直営の店を持つと、言い訳はできません。その代わり、お客様の声も、売れる手応えも、すべて自分たちのものになりました。古い会社だからこそ、守りに入る道もあったはずです。それでも淳は、責任を引き受ける道を選びました。
社史に残すなら、次の三つの場面だと考えます。
一つ目は、2002年に父が「アカン」と言った日です。反対した父は、何を心配していたのか。その心配は、のちに当たったのか、外れたのか。親子の会話は、会社の記録にはまず残りません。
二つ目は、2006年に社員の7割が「不安」と答えたアンケートです。伸びている会社の中で、社員は何を不安に思っていたのか。そこから生まれたビジョンの言葉が、なぜ「日本の工芸を元気にする!」だったのか。
三つ目は、2018年に社長の席を外の人に渡した日です。300年続いた家の名と、会社の舵を切り離す。千石が「冗談ですよね?」と返したその場で、何が話されたのか。それは、当事者が語らなければ、残りません。
あなたの会社は、売れなかった理由を、どこに置いていますか。
会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。
参考にした公開情報
- 中川政七商店「会社について」https://www.nakagawa-masashichi.jp/company/
- ITmedia ビジネスオンライン「中川政七商店が考える、日本の工芸が100年先も生き残る道とは?」(2016年7月20日)https://www.itmedia.co.jp/business/spv/1607/20/news023.html
- TKC『戦略経営者』2012年4月号「政七13代目が仕掛けた“老舗ブランド”の戦略とは」https://www.tkc.jp/cc/senkei/201204_interview/
- ファクトリエ「中川政七 / 株式会社 中川政七商店 代表取締役会長」https://factelier.com/story/25/
- 現代ビジネス(週刊現代)「“老舗ベンチャー”中川政七商店の強さの秘密は『工芸と経営の融合』」(2017年2月18日号)https://gendai.media/articles/-/50979
- ダイヤモンド・オンライン「創業300年・中川政七商店の売上が『直近20年間で17倍』に伸びた“意外な転機”」(2025年5月26日)https://diamond.jp/articles/-/364548
- テレビ東京「カンブリア宮殿」(2014年1月30日放送)https://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/2014/0130/
- ポーター賞「株式会社中川政七商店」(2015年度)https://www.porterprize.org/pastwinner/2015/12/15104405.html
- オルタナ「ビジョンと利益は51対49、中川政七商店の経営哲学」(2022年8月1日)https://www.alterna.co.jp/51109/
- PRESIDENT WOMAN Online「『中川政七商店』悩まない現場づくりでV字回復」(2025年5月30日)https://president.jp/articles/-/96237
- Forbes JAPAN「中川政七商店の会長を50歳で退任した理由」(2025年3月14日)https://forbesjapan.com/articles/detail/77761
連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。
※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、株式会社中川政七商店とKATARUの間に関係はありません。
この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。
公開日:2026年10月25日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)