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そのとき、会社が動いた。

最初の売上は1万2,300円

石見銀山の義肢メーカー・中村ブレイス

中村ブレイスの転機を、公開情報からたどります。

1974年、島根県の大森町。26歳の男性が、実家の前にあった10坪の納屋を作業場に改めました。

始めたのは、義手や義足、体を支える装具をつくる仕事です。最初の注文は、親戚から頼まれたコルセットが一つ。売上は1万2,300円でした。

大森町は、世界遺産の石見銀山のふもとにある町です。銀が掘られていたころには、一帯に20万人ほどが住んでいたともいわれます。けれども1923年に銀山が休山すると、人は出ていき、1970年代には「ゴーストタウン」のような姿になっていました。

その町で、男性が始めた会社は50年続きます。会社が自分のお金で直した古民家は、65軒になりました。そこに住む社員やその家族、関係者はおよそ80人。町の人口およそ400人の、2割にあたります。

人が出ていく町で、なぜ会社を始め、町の家を直し続けてきたのか。その答えは、男性が「何もない」と見た町を、どう受け止めたかにあります。

銀の町の末っ子

劇画調の漫画の1コマ。夕暮れの縁側で、父が少年に語りかける「マルコ・ポーロを知っているか?」。赤瓦の町並み

中村俊郎は1948年、大森町に5人きょうだいの末っ子として生まれました。父は町役場で世話役を務めていましたが、戦後の農地解放のあと、家の暮らしは苦しくなっていきます。

12、13歳のころ、父が俊郎にこう尋ねたといいます。

「マルコ・ポーロを知っているか?」

かつて石見銀山の銀は、海を渡って世界へ運ばれていました。ポルトガルでつくられた古い日本の地図には、「石見」の名が大きく記されています。俊郎は、その問いに、さびれていく町にも希望が湧いたように感じたといいます。

家の事情で、大学には進めませんでした。高校を出ると、京都の義肢製作所に勤め、6年間、義手や義足づくりを学びます。働きながら通信教育で商業と経済を学び、2年の課程を4年かけて終えました。

20代の半ばには、アメリカに渡ります。義肢装具の先進国で、現地の会社で働きながら、2年あまり最先端の技術を身につけました。滞在中には、生死をさまよう交通事故にも遭っています。

ビザの期限に合わせて帰国したとき、日本はオイルショックのあとの不況のさなかでした。学んだ技術を生かして、よい給料で雇われるような状況ではありません。

10坪の納屋

俊郎は、自分で会社を始めることにします。場所に選んだのは、都会ではなく故郷の大森町でした。故郷を選んだのは、父からもらった言葉が心にあったからだといいます。

ここが、中村ブレイスの「そのとき」です。人も仕事も出ていった町で、俊郎は一人で会社を始めました。のちに、そのときをこう振り返っています。

「何もなくなってしまったからこそ」

電話すら通じない土地でした。起業してから1か月、注文は親戚からの1件だけ。市内の病院から仕事をもらえるようになっても、客は月に1人か2人でした。

俊郎は、山陰の医療の中心だった鳥取県の米子の病院へ、あいさつに通い始めます。片道で3時間を超える道のりです。通ううちに、病院の副医院長から声がかかりました。

「君はアメリカで勉強をして、良い仕事をするんでしょう?うちの病院にいつから来てくれるの?」

俊郎は、こう答えたといいます。

「来週から伺ってもよろしいでしょうか」

米子に通い続けて信頼を得ると、仕事は広島などへも広がっていきます。創業から10年ほどで、社員は15、16人になりました。

作業場は小さな町に置いたまま、仕事は町の外へ取りにいく。その形で、会社は少しずつ大きくなっていきました。

中敷きと、人工乳房

創業から10年目、会社の柱になる品が生まれます。シリコーンゴムでつくった靴の中敷きです。シリコーンゴムを中敷きに使ったのは、世界で初めてでした。日本を含む9か国で特許を取り、150万個を超えて出荷されます。

もう一つの柱は、もっと前に芽を出していました。1972年、アメリカで研修を受けていた俊郎は、そこで人工乳房に出会います。そのときの思いを、こう語っています。

「これは日本の女性にも喜ばれる」

女性の社員も増え始めた1991年の暮れ、会社は人工乳房の開発に取りかかり、翌年、第1号ができあがりました。

最初の品には乳首がなく、肌の色も白っぽいものでした。それでは、自分の体の一部として受け入れにくい。会社はつくり手を男性から女性の社員に替え、使う人の声を聞いて直していきました。いまの品は、透けて見える静脈や肌のむら、ほくろまで写し取ります。

手作業でつくり、値段を抑えているため、2014年ごろの時点で、この部門は赤字でした。それでも俊郎は、こう言い切っています。

「人工乳房のおかげで社の知名度、技術力は上がった。損はしていない」

そのころまでに、およそ7,000人の女性が、この会社の人工乳房を使ってきました。手や指を写し取る技術も、ここから育ちます。こうした品は「メディカルアート」と呼ばれ、俊郎はつくり手の社員を「メディカル・アーティスト」と呼んでいます。

古民家を直す

劇画調の漫画の1コマ。古民家の改修の現場で梁を見上げる男性の後ろ姿「それくらいしなきゃいけない」

会社が育つと、俊郎は町の空き家に手をかけ始めました。自社の社屋のほかに、1988年から毎年数件ずつ、古い家を直していきます。社員の寮に、社宅に、店に。公的な補助金は使っていません。直すのにかかるお金は、1軒で少なくとも2,000万円から3,000万円といわれます。

採算を度外視したこの仕事について、俊郎はこう語っています。

「それくらいしなきゃいけない」

町の幼稚園は、一時、園児が1人にまで減って、閉じるかどうかの瀬戸際にありました。会社は2年にわたって人件費と維持費を負担します。いまは保育園として、およそ30人の子どもが通っています。2012年3月からの9年間で、町には32世帯が移り住み、43人の子どもが生まれました。

2018年、長男の中村宣郎が社長を継ぎました。宣郎も義肢装具士の資格を持っています。宣郎は、町の再生と会社の仕事の順番を、はっきり口にしています。

「古民家再生も、本業があってのもの。私たちは義肢装具の会社としていい仕事をすることが大前提にあります」

町の古い屋敷を直して、図書館も開きました。かけたお金はおよそ2億円。島根県立大学と組んで運営し、学生たちが町に通ってきています。

払ったもの

ここまでの道のりで、会社が引き受けてきた重さもあります。

一つは、お金です。古民家の改修は、本業の売上には結びつきません。次男で専務の中村哲郎は、こう話しています。

「実際、本業の売上に関係ありませんし、投資を回収しようとしていたら古民家再生なんてできません。」

もう一つは、時間です。俊郎は2013年の講演で、一人前の技術者を育てるには少なくとも20年、人によっては25年かかると話しています。最初に雇った社員が、朝8時から夕方5時までの仕事をこなせるようになるまでには、7年半かかりました。

そして、町そのものの不便さです。JRの駅につながる路線バスは、1時間に1本。米子へ片道3時間かけて通った創業のころから、この会社は、町の外へ出向いて仕事を取りにいく形を続けてきました。

社史の目で見ると

人が出ていく町で、なぜ会社を始め、町の家を直し続けてきたのか。

私は、中村ブレイスが「会社の外にある町まで、自分たちの仕事の一部だと考えた」からだと考えます。俊郎は、何もなくなった町を、出ていく理由ではなく、始める理由にしました。仕事は町の外まで取りにいき、稼いだお金で町の家を直し、そこに社員が住む。会社が続くことと、町が続くことを、最初から一つのものとして扱ってきたように見えます。

社史に残すなら、次の三つの場面だと考えます。

一つ目は、父が「マルコ・ポーロを知っているか?」と尋ねた日です。父はなぜ、その問いを末っ子に投げかけたのか。その問いは、26歳の決断にどうつながったのか。

二つ目は、米子の病院で「うちの病院にいつから来てくれるの?」と聞かれた日です。片道3時間の道を、何度通ったあとの一言だったのか。その帰り道に、何を考えたのか。

三つ目は、社屋のほかに、初めて町の古民家を直すと決めた日です。本業の売上にならない家に、なぜお金を使うと決めたのか。そのとき、家族や社員は何と言ったのか。それは、当事者が語らなければ残りません。

あなたの会社にとって、会社の外にある「仕事の一部」は何ですか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。

※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、中村ブレイス株式会社とKATARUの間に関係はありません。

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月29日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)