広島のデパートの催事場。並んでいるのは、できあがったばかりのクリームパンです。
パンとして売っていたころ、200円という値段に返ってきたのは「高い」という声でした。ところが催事でスイーツとして売ると、「安いね」とほめられ、よく売れたといいます。そして買っていく人の多くが、同じことを尋ねました。「箱はないの?」
袋に入れて渡していたパンを、お客は手土産として買っていたのです。2008年6月に完成したこのパンが、のちに「八天堂のくりーむパン」として品川駅に行列をつくります。ただ、意外なのはその手前です。このパンを出した会社は、ほんの少し前まで100種類を超えるパンを売っていました。さらにその前は、広島県内に13の店を持つパン屋でした。
増やして伸びた会社が、増やしたもので行き詰まり、1つに絞って立ち直る。なぜ「1つ」だったのか。手がかりは、店の数とパンの数の移り変わりにあります。
- 1933年 三原市で和菓子店「森光八天堂」として創業
- 1975年 洋菓子を加え、「ラ・セーヌ八天堂」に
- 1991年 3代目の森光孝雅さんが「たかちゃんのぱん屋」を開く
- 2000年代初め 債務超過に。売上はピーク時の約半分に
- 2002年 袋詰めパンをスーパーに卸す事業を始める
- 2007年 商品を1種類に絞ると決める
- 2008年 くりーむパンが完成
- 2009年 「八天堂」に名を改め、東京へ。10月、品川駅に売り場
- 2025年5月期 売上高は約40億円
13店のパン屋
八天堂の始まりは、パンではありません。1933年、森光香さんが広島県三原市の港町で開いた和菓子店です。世界恐慌の余波で暮らしに苦しむ人が多かった時代に、甘いお菓子で人を元気づけたい、という思いがあったとされています。この「お菓子」という出発点は、あとで意外な形で戻ってきます。2代目の森光義文さんが1975年に洋菓子を加え、店の名は「ラ・セーヌ八天堂」になりました。
3代目の森光孝雅さんは、神戸のパン屋で4年半の修業を積み、1991年、26歳で三原に「たかちゃんのぱん屋」を開きます。和洋菓子の店を、パン屋に変えたのです。
店は当たりました。
「3年くらいは棚にぎっしりとパンが並んだことはありませんでしたね。なぜなら、並べる前に売れてしまうんです」と、森光さんは語っています。開店3年目からは店を増やし、尾道や竹原へ。10年足らずで県内13店舗、年間の売上は4億円に届きました。1997年には社長に就いています。
このころの自分を、森光さんはこう振り返っています。「父は1店舗しか運営していなかったのに、僕は13店舗にまで増やした」。父をどこか見下していた、とも語っています。
店の数は、そのまま力の大きさに見えていました。ところが、まわりの景色が変わっていきます。コンビニが増え、店の奥でパンを焼く工房つきのパン屋も増えました。景気も冷えこみます。初めに出した店の売上が落ち、赤字の店が出てきても、森光さんは14店舗目を神戸の三宮に出そうと考えていました。その矢先の2001年、店長候補だった幹部社員が突然辞めます。会社はやがて債務超過に陥り、ピーク時に4億円あった売上は半分まで減っていました。弁護士から示されたのは、民事再生法の資料でした。
「その時期は、2店舗くらいになっていましたね」と、森光さんは語っています。13あった店のほとんどを、手放したことになります。
このとき、栃木でパン屋を営む弟から、自分の資金を使ってほしいという申し出がありました。森光さんは、そこで父の見方が変わったと語っています。「けれど人間として見たとき、こんな立派な弟を育てられてる人なんだと気づいて愕然としました」。店の数で測っていた父を、別の物差しで見直した瞬間です。社員や家族に支えられていたことに気づき、その恩を返すために経営を一から学び直す決意をした、とも語っています。
100種類の棚
立て直しの糸口は、店ではなくスーパーの棚にありました。2002年、地元の素材を使った天然酵母の袋詰めパンをつくり、県内のスーパーに卸す事業を始めます。きっかけは、店に来るお客の声でした。
これが当たります。無添加や地産地消をうたったパンは、同じ100円のあんパンでも120〜130円で売れたといいます。業績は急に持ち直しました。
ここで、パンの数が増えていきます。店で売っていたころ、1店舗に並ぶパンは多くても50〜60種類でした。量販店への卸を始めると、それが100種類を超えたのです。
ところが、卸の3年目ごろから売れ行きが落ち始めます。理由は、八天堂の努力だけでは埋めにくいものでした。
本社のある三原から県内の遠い店へは、配送が1日1便しか出せません。棚が空いても、すぐには埋められない。そのあいだに、同じようなこだわりのパンを地元のパン屋がつくり始め、近い店ほど補充で有利になります。クレームへの対応も、地元の店より遅れました。
つまり、種類を増やすほど、同じ棚の上で「近い店」と比べられる勝負になっていったのです。100種類あっても、どれも「ついでに買われるパン」のひとつでした。一度は会社を救った卸が、2度目の行き詰まりの入り口になっていきます。

1種類に絞る
2007年、森光さんは商品を1種類に絞ると決めます。
「うちのような中小企業は、資本も資源もありません。だからこそ、選択と集中が必要だと考えたのです。100種類から1種類に絞ることで、商品開発にも100倍のエネルギーを費やせるようになりますから」と、森光さんは語っています。
背中を押したものが、いくつかありました。ひとつは、買い物のしかたの変化です。「ついで買い」ではなく、それを目当てに足を運ぶ「目的買い」が増えていました。東京では、一品だけを売る専門店がはやっていました。そして同じ三原の菓子メーカー、共楽堂が、マスカットと求肥を組み合わせた「ひとつぶのマスカット」で東京の一流デパートに並ぶほどの人気を得ていたことにも、勇気づけられたといいます。
ここで大事なのは、どれも「数を増やす」とは逆の向きを指していたことです。13の店、100種類のパン。増やすことで伸びてきた会社にとって、減らすことは、それまでのやり方をまるごと手放すことでもありました。
では、何の1品にするのか。森光さんは、それまでに1万点を超えるパンを開発してきました。それでも、一時は注目されても、すぐに飽きられることがほとんどだったといいます。その理由を、森光さんはこう分析しています。「奇をてらったものばかりつくっていたからです」
そこで手がかりにしたのが、経済学者シュンペーターの考え方です。新しいものは、すでにあるもの同士の組み合わせから生まれる。森光さんはそれを「“あるもの”と“あるもの”を組み合わせたときイノベーションは起こる。その“あるもの”とはスタンダードなものである、という言葉が稲妻のように入ってきました」と語っています。
選んだのは、珍しい素材ではありませんでした。どこのパン屋にもあるクリームパンと、洋菓子では当たり前の「くちどけ」。この2つの組み合わせです。
もう一つ、条件がありました。東京で売るには、広島から運ばなければなりません。焼きたてのクリームパンは、冷めると洋菓子にくちどけで劣ります。時間がたっても味が落ちないこと。生クリームの配合、パンを切ってからクリームを入れるか、ポンプで入れるか、小麦粉の配合。試作は続きました。
社内の声は、反対ばかりでした。社員からは「うまくいくとは思えない」「ついていけません」。先代からは「いよいよおかしくなったか」と、考え直すよう説得されたといいます。商品を卸していたスーパーや量販店は怒り、出入りを禁じられた店もありました。
同じ2007年、八天堂は「良い品 良い人 良い会社づくり」という経営理念を言葉にしています。商品を絞る決断と、会社の考え方を書き出すことが、同じ年に重なっていました。
それでも、ほかのパンの製造は順にやめていきました。離れていった社員や取引先もあります。約1年半の開発をへて、2008年6月、くりーむパンが完成しました。
できあがったのは、冷やして食べるパンです。冷やしてもやわらかい生地に、焼き上がったあと一つずつ手でクリームを入れる。冷やすことでクリームの水分が生地になじみ、しっとりとした口当たりになります。焼きたてが一番、というパン屋の常識とは逆の向きです。運ぶあいだに味が落ちる、という弱みを、冷やして食べるという食べ方そのものに変えたのです。
品川の1日3回
完成したパンをどう売るか。答えを出したのは、冒頭の催事のお客でした。
パンの売り場では「高い」。スイーツの売り場では「安いね」。そして「箱はないの?」。パンでありながら手土産になるスイーツ、という市場があることを、森光さんはここで確かめます。のちに森光さんは、完成したときのことを「一筋の光が見えました」と語っています。
2009年、店の名前を「八天堂」に揃え、東京に出ます。値段は1個200円、5個入りで1,000円。パンとしては高く、ケーキとしては手頃な値段でした。東十条の商店街でのテスト販売で、用意した50個はすぐに売り切れ、翌日以降も完売が続きました。10月には、品川駅に売り場が設けられます。
有名人がテレビで取り上げたこともあって、メディアに次々と紹介され、駅の売り場には100人規模の行列ができました。冷やして食べる新しい食感に加え、数をつくれないために夕方16時には売り切れてしまうことも、人気を後押しします。広島の工場は24時間動かしても追いつかず、需要に供給が追いつかない状態は約3年続きました。
品川の売り場からは、足りないことへのお叱りも受けました。担当者は「本当に作れないのか?」と、工場まで確かめに来たといいます。数を増やせないことには理解を得ましたが、頼まれたのは「せめて夕方のピークである17時には商品があるようにしてほしい」ということでした。そこで、納品を1日3回に分けます。
卸のころ、遠い店へは1日1便しか届けられず、棚が空けば、そこには近くの店のパンが並びました。今度は逆です。足りないパンを、お客が列をつくって待っている。「せめて17時には」と頼んでくるのは、売り場の側でした。
売れてみて分かったこともあります。当初、買い手として思い描いていたのは女性でした。ところが品川のようなオフィス街では、男性が約6割を占めていたのです。手土産にできるパンを求めていた人は、思い描いていたよりずっと幅広かった。「箱はないの?」の声は、広島の催事場だけのものではなかったことになります。
数字にも、変わり方がはっきり出ています。東京で発売した2009年の売上高は1億7,000万円。翌年は約8億円になりました。13店舗で積み上げた4億円の、倍です。

その後は、1品を軸に工場を広島と千葉に構え、2017年にはシンガポールに海外1号店を出しました。2025年5月期の売上高は約40億円。そのうち6〜7割を、くりーむパンが占めています。
会社が大きくなると、別の壁も出てきます。売上が5億〜10億円ほどまでは「気合と根性で組織を引っ張れた」けれど、その先は理念やルールをはっきりさせる必要を痛感した、と森光さんは振り返っています。2016年には工場の横に体験型の店「八天堂カフェリエ」を開き、地域に開いた保育園もつくりました。2025年には、森光さんが渋沢栄一賞を受けています。1品に絞った会社は、そこから人と地域へ手を広げていきました。
払ったものもあります。長年つきあってきた取引先に、撤退を願い出てまわることは、精神的にも大きな負担だったとされています。ついてこられずに離れた社員もいました。売れると分かれば、似た商品も出てきます。それでも、結果としてニッチな市場を確立できたという意味では良かった、と森光さんは振り返っています。そして、こうも語っています。「ニッチのナンバーワンにこだわり、徹底的に掘り下げて大手が真似できない付加価値を意識したマーケティングを行うことが重要である」
社史の目で見ると
なぜ「1つ」だったのか。
八天堂は、2度、増やすことで伸び、2度、増やしたもので行き詰まりました。13の店も、100種類のパンも、近くの店と同じ土俵で比べられる数でした。1つに絞ったことで、八天堂のパンは「ついでに買うもの」から「それを目当てに買いに行くもの」に変わります。遠くから運ぶしかないという条件は、くりーむパンになっても同じです。違ったのは、売り切れても、お客がまた並んでくれる商品になったことでした。
もう一つ、見落としたくない点があります。くりーむパンは、パンの売り場では「高い」と言われ、スイーツとして並べると「安いね」と言われました。和菓子屋として始まり、洋菓子を加え、パン屋になった会社が、最後に勝負をかけたのは「お菓子のように買われるパン」でした。甘いお菓子で人を元気づけたい、という1933年の出発点に、形を変えて戻ってきたとも読めます。
この歩みを社史に残すなら、記しておきたい場面が3つあります。
1つ目は、13店舗の時代です。失敗の時代として短く済ませたくなる時期ですが、ここを飛ばすと、なぜ「1つ」なのかが伝わりません。うまくいった時代の数字と、そのときの考え方を、本人の言葉のまま残しておく。「父は1店舗しか」と語った人が、のちに1品で会社を立て直した。この対比は、あとで読む社員にこそ届くはずです。
2つ目は、2007年の反対の声です。社員の「ついていけません」、先代の「いよいよおかしくなったか」、出入りを禁じた取引先。社史はつい、うまくいった決断を「英断」として一行で書いてしまいます。けれど、決めたことだけでなく、誰が何と言って反対したかを残しておくと、決断の重さが後から読む人にも伝わります。反対した人が間違っていたわけではありません。卸で会社を救った100種類を捨てるのは、誰が見ても危うい賭けでした。その危うさごと残すことに意味があります。
3つ目は、催事の「箱はないの?」です。売り方を決めたのは会議ではなく、お客の一言でした。その日、どこの売り場で、どんな袋で渡していたのか。こうした場面は、当事者が覚えているうちに聞いておかないと、まず残りません。
あなたの会社で、何かを「1つに絞った」日は、いつでしたか。
会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。
参考にした公開情報
- 広島県「Go!ひろしま 企業データベース 株式会社八天堂」(2025年8月28日掲載)https://www.pref.hiroshima.lg.jp/go-hiroshima-database-kigyo/go-data-0170.html
- 谷本貴之「株式会社八天堂におけるマーケティング戦略-中小食品製造業者のマーケティング実践に関する一考察-」『愛媛大学社会共創学部紀要』第10巻第1号(2026年)https://www.cri.ehime-u.ac.jp/cri_k5m4gn7/wp-content/uploads/2026/03/c101de248b659eee5ad7a1eb7c6fb49d.pdf
- 東洋経済オンライン「爆売れ「八天堂のくりーむパン」の意外な軌跡」(2019年3月12日)https://toyokeizai.net/articles/-/269606
- 社長名鑑「株式会社八天堂 代表取締役社長 森光孝雅」Vol.2・Vol.3(2017年4月取材)https://shachomeikan.jp/presidents/detail/10062781/5394 https://shachomeikan.jp/presidents/detail/10062781/5395
- Agenda note「八天堂のくりーむパンはなぜ駅ナカで人気なのか?森光孝雅代表が語る『一点突破・全面展開』のクリエイティブ・ジャンプ」(2024年4月16日)https://agenda-note.com/conference/detail/id=5910
- 賢者の選択サクセッション「くちどけ抜群、冷やして食べる『くりーむパン』を生み出した3代目」(2025年6月16日)https://kenja-succession.com/articles/strategy/interview-hattendo-3/
- 広島市「ザ・広島ブランド くりーむパン」https://www.city.hiroshima.lg.jp/hiroshima-brand/tokusan/1026502/1026507/1037155.html
連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。
※本記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、株式会社八天堂とは関係がありません。
この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。
公開日:2026年10月18日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)