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そのとき、会社が動いた。

8割の仕事を、自分から断った

宇治・HILLTOPが「遊ぶ鉄工所」になるまで

HILLTOPの転機を、公開情報からたどります。

京都府宇治市に、ピンク色の建物が建っています。

金属の部品を削ってつくる会社、HILLTOPの本社です。中には社員食堂があり、浴室があり、筋トレのための部屋まであります。訪れた記者が、思わず「ぴ、ピンク?」と声を上げたと報じられました。油の匂いのする町工場を思い浮かべて来た人ほど、驚くのでしょう。

この会社の取引先には、ディズニーやNASAの名前が並びます。つくる部品は、アルミを中心に月に数千種類。注文は、1個や2個の試作品が中心です。

ところが、40年あまり前のこの会社は、まったく違う姿をしていました。自動車メーカーの「孫請け」として、同じ部品を毎日大量に削る鉄工所だったのです。仕事の8割は、その自動車部品でした。

その8割を、入社4年目の若い社員が、自分から断ります。

稼ぎ頭を手放した小さな鉄工所は、その代わりに何を手に入れたのか。答えは、夜の工場にあります。

HILLTOPの歩みの年表(1961〜2023年)

油まみれの孫請け

HILLTOPの始まりは、1961年です。昌作の両親が開いた、ごく小さな鉄工所でした。つくっていたのは自動車の部品です。

自動車の部品は、大きな会社から順に仕事が下りてきます。メーカーから一次の下請けへ、一次から二次へ。この鉄工所は、そのさらに下にいました。昌作は、自分たちの立場を「下請けよりもひどい孫請け」と語っています。

孫請けの仕事には、決まりごとがありました。毎年、値下げを求められるのです。その幅を、昌作は「毎年5~8%のコストダウンを強いられる」と振り返っています。同じ部品を、去年より安く、去年より速く削る。それが毎年続きます。

1971年、家族は「有限会社山本精工」をつくります。昌作の著書の紹介には、耳の聞こえない兄のためにつくった会社だと記されています。その兄は、のちに社長として会社を率いています。家族で始め、家族で支えてきた工場だったのです。1980年には株式会社になっています。

規模は小さく、仕事は下から回ってくる。値段は上で決まる。自分たちで決められることは、ほとんどありませんでした。

昌作が入社したのは1977年です。兄と弟は、高校を出るとすぐ親の鉄工所に入っていました。昌作は立命館大学から商社への内定が決まっていて、自分はいなくてもいいと思っていたといいます。それでも母に泣かれ、しかたなく家業に入った。昌作は、入社のいきさつをそう振り返っています。

入った現場で、昌作は先輩からこう言われました。「何も考えずに手を動かせ」。

最初は、その言葉に従いました。けれども、毎日同じ部品を削り続けるうちに、ひとつの思いが募っていきます。人間がロボットのように動くやり方が、当たり前になっている。昌作は「私は、耐えられませんでした」と語っています。

ここで大事なのは、昌作が嫌ったのが「仕事がきついこと」ではなかった点です。私の見方では、彼が耐えられなかったのは、考える余地がないことでした。この違いが、のちの会社の形を決めていきます。

8割を断った日

1981年。入社から4年がたっていました。

昌作は、当時経営を取り仕切っていた両親を説得します。受託していた仕事の8割を占める、自動車メーカーからの依頼を、もう受けない。そう決めたのです。

8割です。小さな鉄工所にとって、それは売上のほとんどを手放すことを意味しました。昌作は、のちにこう語っています。

「だから僕は8割の利益源である大量生産をやめた」

理由は、驚くほど率直です。「ただただ孫請けが嫌だった」。毎年の値下げを求められ続ける世界を、昌作は「不毛な戦い」とも表現しています。

もうひとつ、昌作の考えには先がありました。大量生産をしているだけでは、新しいものを生み出せない。別のつくり方を探さなければならない。断ることは、終わりではなく、探し始めることでした。

この決断には、もうひとつ見落とせない点があります。決めたのは社長ではありません。入社4年目の、20代の社員でした。経営を仕切っていたのは両親です。両親を説得できなければ、何も変わらなかったはずです。

私の見方では、この会社が動いたのは、若い社員の思いつきを、親が最後に受け止めたからでした。8割を手放すという案は、どの経営者にとっても怖いものです。それを家族が呑んだこと自体が、この会社の最初の転機だったと私は考えます。

けれども、探し物はすぐには見つかりません。

味噌も買えない

8割の仕事がなくなった鉄工所に、残ったのは機械と人です。空いた機械を、別の仕事で埋めなければなりません。

その後の暮らしぶりは「味噌も買えない極貧生活」と報じられました。どれだけ売上が減ったのかを示す数字は、公開されていません。ただ、この一言から、断った代償の大きさは十分に想像できます。

8割を断るとき、次の仕事の当てがあったわけではありません。先に断り、あとから探す。順番が、ふつうの会社とは逆でした。多くの会社は、次の柱が育ってから古い柱を外します。そのほうが安全だからです。HILLTOPは、古い柱を先に外しました。空いた機械と、払えない給料が、次の仕事を探す力に変わるしかない状態を、自分たちでつくったとも言えます。

手探りの中で、ひとつの注文が転機になりました。それまで見たこともない、複雑な図面です。同じ部品を大量に削るのではない。一つひとつ形の違う部品を、少しずつつくる。多品種少量という、まったく逆の仕事でした。

ところが、ここで壁にぶつかります。職人たちが、新しいやり方に「誰一人として耳を貸しません」でした。長年の勘と手で削ってきた人たちです。やり方を変えようという若い社員の声は、簡単には届きません。

そこで昌作が考えたのが、職人の技そのものを、機械に渡すことでした。

ルーティンの作業はプログラムにして、機械に加工させる。人の技能やノウハウはデータベースに蓄える。そして社員には、もう一段上の、頭を使う仕事をしてもらう。昌作は、その狙いをこう語っています。

「人の技能やノウハウをデータベース化し、社員にはさらにステップアップした知的作業をやってもらおう」

この仕組みづくりが始まったのは1983年です。2年後の1985年、職人の技をデータにした「HILLTOPシステム」が動き出します。

昼は人、夜は機械

HILLTOPシステムが変えたのは、一日の時間の使い方でした。

昼のあいだ、社員はプログラムをつくります。どの刃物で、どの順番で、どれだけ削るか。かつて職人の頭と手の中にしかなかった判断を、データとして組み立てるのです。夜になると、機械がそのプログラムどおりに部品を削り続けます。人のいない工場で、24時間動く仕組みです。

入力の手間にも工夫がありました。同じような部品をつくるのに、ふつうなら800を超える項目を入れるところを、25項目で済むようにしたといいます。受注から納品までは、新しい注文で最短5日、繰り返しの注文なら最短3日。1個から受けられる試作の会社にとって、この速さが強みになりました。

試作品を頼む側は、急いでいることが多いものです。新しい製品の形を確かめたい。早く次の設計に進みたい。そうした注文主にとって、1個でも数日で届く工場は、値段だけでは比べられない相手になります。量産の世界で価格を叩かれていた会社が、試作の世界では、速さで選ばれる会社になったのです。

ここで、冒頭の先輩の言葉に戻ります。「何も考えずに手を動かせ」。昌作がつくったのは、その正反対の工場でした。手を動かすのは機械に任せ、人は考えることに時間を使う。考えることのない仕事を嫌った若者は、考えることだけを人に残す工場をつくったのです。

職人が耳を貸さなかったことも、裏を返せば、この仕組みの出発点でした。勘と手の中にある技は、本人がいなければ使えません。それをデータにすれば、技は会社に残ります。誰が辞めても、誰が休んでも、夜の機械は止まらない。職人の技を否定したのではなく、技を人から会社へ移したのです。

ただし、その道のりは平らではありませんでした。

2003年12月22日、工場で火災が起きます。昌作は全身のおよそ3割にやけどを負い、1か月ほど意識が戻りませんでした。社員の一人が亡くなっています。昌作は、そのときのことを「私は、一生分泣きました」と語り、「だから社員が誇れるような何かを残したい」と続けています。

退院までには、およそ4か月かかりました。「社会復帰できないと思いました」とも語っています。弟で専務の山本昌治は、のちに「あの火事が、天狗になっていた副社長の鼻をへし折るきっかけになった」と語っています。HILLTOPシステムが評価され、2002年度には「関西IT百撰」の最優秀企業に選ばれていました。順調に見えたその直後の火災でした。

それでも昌作は会社に戻ります。社員が誇れるものを残す。その思いは、このあと会社が外へ出ていく時期と重なっていきます。

HILLTOPの前と後の比較(自動車メーカーの依頼が占めた割合と1社に頼る割合、利益率、部品1つの入力項目)

3,000社と、ピンクの社屋

2014年4月、HILLTOPは米国カリフォルニア州アーバインで営業を始めました。米国法人を率いたのは、昌作の長男の山本勇輝です。同じ2014年、会社は社名を「HILLTOP」に改めます。2016年には、シリコンバレーにも事務所を開きました。

試作の部品は、航空宇宙、医療、自動車、映画や音楽の分野へと広がっていきます。取引先には、ディズニーやNASAが加わりました。2006年度には、2度目の「関西IT百撰」最優秀企業にも選ばれています。

つくる部品は、アルミを中心に月におよそ3,000種類。同じ部品を毎日削っていた工場とは、仕事の中身がまるで違います。

数字で比べると、変化の大きさが見えてきます。1981年まで、仕事の8割は自動車メーカーからの依頼でした。2018年、取引先は年度末に3,000社を超える見込みと報じられています。1社に頼る割合は30%以下にとどめ、取引先は毎年およそ100社入れ替わるといいます。

1社に頼れば、その1社の値下げに逆らえません。3,000社に分かれていれば、1社の言い分に会社の形を決められることはない。私の見方では、1981年に断ったものの正体は、自動車の部品そのものではありませんでした。1社に価格を決められる立場だったのです。

利益率は20%を超えると報じられています。一般的な鉄工所の利益率は3~8%といわれます。毎年5~8%の値下げを求められていた孫請けの時代を思えば、同じ会社の数字とは思えません。値段を決める側に、少しずつ近づいていったことになります。

毎年およそ100社が入れ替わる、という数字も見逃せません。取引先が入れ替わるのは、ふつうなら不安の種です。けれども、1社に頼らない会社にとっては、入れ替わること自体が健全さの表れになります。去る会社があっても、新しい会社が来る。1981年の鉄工所には、去られたら終わりの取引先しかありませんでした。

社員の暮らしにも、形が表れています。ピンクの社屋、社員食堂、浴室、筋トレの部屋。年に2,000人を超える人が、この工場を見学に訪れるようになりました。2018年、昌作は著書『ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所』を出しています。「遊ぶ」という言葉は、かつて「何も考えずに手を動かせ」と言われた工場とは、まるで別の場所を指しています。

三代目の言葉

昌作の長男、山本勇輝は、米国法人のCEOを務めたあと、社長として会社を率いるようになりました。両親が開いた鉄工所から数えて、三代目にあたります。2023年10月の時点で、社員は144名です。

その勇輝は、2026年、こう語っています。

「製造業が嫌いなんです」

部品をつくる会社の社長の言葉としては、意外に聞こえます。けれども、HILLTOPは自分たちの使命として「人にしかできない価値ある仕事を追求する」と掲げています。

1981年に父が耐えられなかったのは、人がロボットのように動く工場でした。40年あまりたって、息子は同じことを、別の言葉で言っています。父は「孫請けが嫌だった」と言い、息子は「製造業が嫌い」と言う。どちらも、嫌いなものをはっきり口にしています。そして、どちらも、嫌いなものから逃げるのではなく、それを変える側に回りました。親子二代で、言葉の強さがよく似ています。

私の見方では、嫌っているのは、ものをつくることではありません。人が考えずに手だけを動かす働き方なのだと、私は受け取りました。

社史の目で見ると

冒頭の問いに戻ります。稼ぎ頭の8割を手放した鉄工所は、何を手に入れたのか。

私は、手に入れたのは「断れる立場」だったと考えます。1社の注文に頼っていたころ、毎年の値下げを断ることはできませんでした。8割を自分から手放し、職人の技をデータにし、3,000社と取引するようになって、HILLTOPは初めて、仕事を選べる会社になりました。

そして、その立場を支えたのは機械ではありません。考え方です。考えることは人に、繰り返しは機械に。この線の引き方は、1981年から三代目の言葉まで、ほとんど変わっていません。

社史に残すなら、次の3つの場面だと私は考えます。1977年、入社してすぐ、先輩から「何も考えずに手を動かせ」と言われた日。1981年、両親を説得して8割の仕事を断った日。そして2003年12月22日、火災のあとで「社員が誇れるような何かを残したい」と決めた日です。

3つの場面に共通するのは、どれも数字には表れないことです。8割を断った年、帳簿に残るのは売上が減ったという事実だけです。火災の年も、残るのは損失の額でしょう。その裏で、誰が誰を説得し、何を残そうと決めたのかは、どこにも書かれません。

売上の数字は、決算書に残ります。けれども、なぜ8割を断れたのか、そのとき家族は何と言ったのかは、当事者が語らなければ残りません。

あなたの会社が、いちばん勇気を出して断った仕事は何でしたか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。

※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、HILLTOP株式会社とKATARUの間に関係はありません。

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月23日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)