2005年9月、福岡県久山町の山あいに、一軒の料理店が開きました。
博多から車で30〜40分。ほたるが飛ぶ小川のほとりに建てたのは、茅葺き屋根の大きな家です。屋根の高さは11.5メートル、幅は37.5メートル。使った茅はおよそ80トンで、職人は大分県日田市から招きました。店の名前は「御料理 茅乃舎」といいます。
いまでは、茅乃舎と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、料理店ではなく「だし」でしょう。焼きあごやかつお節を袋に詰めた、あのだしパックです。けれども、このだしは、売るために工場で考えた商品ではありませんでした。料理店に来たお客様の、ある質問から生まれたのです。
しかも、店を建てたのは料理屋ではありません。明治から続く醤油蔵で、ほかの会社の名前で売られる「たれ」を小袋に詰めてきた会社でした。
醤油屋のだしは、なぜ工場ではなく、山の料理店から生まれたのか。その答えは、店を開く15年前から続いていた、赤字の日々にあります。
- 1893年 久原村(いまの久山町)で醤油蔵「久原醤油」が開業
- 1978年 河邉哲司が家業の久原調味料に入社
- 1980年 醤油をもとにした、たれや調味料の開発を始める
- 1990年 初めての自社ブランド、明太子の「椒房庵」を立ち上げる
- 1996年 河邉哲司が41歳で社長に就く
- 1999年 「キャベツのうまたれ」が大きく当たる
- 2005年 「御料理 茅乃舎」を開く
- 2006年 家庭向けの「茅乃舎だし」を売り始める
- 2010年 東京ミッドタウンに、東京で初めての店を出す
- 2025年 茅乃舎の店は全国31店に

継ぎたくなかった家業
久原本家の始まりは、1893年(明治26年)です。創業者の河邉東介が、村の人たちに支えられて、久原村に醤油蔵を開きました。戦前には、朝鮮半島や中国大陸にまで醤油を売っていましたが、その販路は終戦とともに途絶えます。
4代目にあたる河邉哲司は、1955年に久山町で生まれました。若いころの気持ちを、河邉はこう振り返っています。
「若い頃は、当時はまだ小さな醤油屋だった久原を継ぐのが嫌で嫌で逃げ回っていたのですよ。」
それでも大学2年のとき、父に言われて上京し、醤油を小袋に詰める機械の扱いを覚えました。1978年、福岡大学を出て家業の久原調味料に入ります。入社したときの従業員は6人。商いの中心は、家を1軒ずつ回って醤油を届ける宅配でした。
ところが、その醤油が売れなくなっていきます。食卓は洋風になり、家族は小さくなり、買い物はスーパーへ移っていきました。家に届ける醤油の出番は、年ごとに減っていったのです。
ここで河邉が目を付けたのが、大学時代に覚えた小袋の機械でした。
「もう醤油だけではダメだ。うちも袋詰めの『たれ』をつくろう」
スーパーの総菜や餃子に付ける、小さな袋のたれ。それを、納める先の会社の名前でつくる。いわゆるOEMです。1980年には、醤油をもとにしたたれや調味料の開発に取りかかりました。取引は広がり、業績は持ち直していきます。
醤油屋は、たれの工場になりました。会社は救われたのです。ただし、その袋のどこにも、久原の名前は載っていませんでした。
「これ下請けじゃないですか。」
仕事が順調に回り始めたころ、河邉は工場で働くパートの女性から、こう言われます。
「これ下請けじゃないですか。」
いくら袋を詰めても、お客様が手に取るのは、よその会社の名前です。取引先が別の工場を選べば、仕事はそこで終わる。戦前に大陸の販路を一度に失った会社です。売り先をほかの会社に預けておくことの危うさは、身にしみていたはずです。
私の見方では、この一言が久原本家の向きを変えました。つくる力はある。足りないのは、お客様が名前で選んでくれる商品でした。
自社の名前で売るものを探して、ドレッシングなどにも手を出しましたが、うまくいきません。1990年、河邉が選んだのは明太子でした。初めての自社ブランド「椒房庵」です。北海道産の卵を使い、手土産にも使える包みにしました。
この明太子は、すぐには売れませんでした。赤字は9年続きます。本店を開き、通信販売に力を入れて、ようやく黒字になったのは10年目でした。
9年の赤字は、会社にとっては重い数字です。けれども河邉は、この時期をこう語っています。
「『椒房庵』で苦しんだ経験が、次の『茅乃舎』にすごく役立ったんです。」
自分の名前で売るには、時間がかかる。店を持ち、お客様に直接届ける道をつくらなければならない。その学びを、会社は赤字と引き換えに手に入れました。
1996年10月、河邉は41歳で社長に就きます。3年後の1999年には、「キャベツのうまたれ」が大きく当たりました。ここでようやく、久原は自分の名前で売れる商品を持てたのです。
山の中に、茅葺きの家を建てる
それでも河邉は、そこで止まりませんでした。
次に向かったのは、調味料ではなく料理店です。きっかけの一つは、イタリアで始まったスローフードの考え方でした。土地の素材と旬を大事にし、食の文化を次の世代へ渡していく。河邉はこの考えに強く動かされ、日本の伝統的な食を守り、伝える場をつくろうとします。
場所に選んだのは、創業の地の久山町でした。都会の真ん中ではなく、博多から車で30分以上かかる山あいです。隣の福岡市にはおよそ160万人が暮らしますが、久山町の人口は9,000人ほど。わざわざ車で来てもらわなければ、客の入らない場所です。しかも建物は、いまでは建てる人の少ない茅葺きでした。
茅葺きを選んだのは、見た目のためだけではありません。茅葺きの家は、日本の暮らしの中で受け継がれてきた文化の一つです。それを守ることも、店をつくる理由に入っていました。料理だけでなく、建物ごと「日本の食の場」を残そうとしたのです。
いちばん苦労したのは、料理人探しだったといいます。料理長に決まったのは岡部健二。店の看板になる「十穀鍋」と、スープ「大地の恵」が出来上がるまでに、河邉は何度もやり直しを求めました。
醤油とたれの会社が、山の中に料理店を開く。数字だけを見れば、遠回りに見える手です。ただ、河邉は自分のことをこう表しています。
「臆病者なので、常に先読みをするんですよ。」
私は、ここに久原本家の癖が出ていると考えます。たれのOEMで会社を立て直したときも、明太子で赤字を抱えたときも、河邉は今の商売が続かなくなる日を先に考えていました。料理店もまた、先読みの一手でした。
お客様の質問から、だしが生まれた
2005年9月、「御料理 茅乃舎」が開きます。
山の中の店は、時間をかけて人を集めていきました。開業から18年たった2023年には、予約でいっぱいの店として紹介されています。いまは、2か月前の1日から予約を受け付けています。
店で出したのは、十穀鍋をはじめとする、素材の持ち味を生かした料理でした。すると、食べたお客様から、同じ質問が繰り返し寄せられるようになります。
この鍋のだしは、どうやってとっているのか。家でも同じ味をつくりたい。
ここが、この会社の「そのとき」です。
料理店の味を家で再現するのは、簡単ではありません。そこで料理長が素材を選び、配合を工夫して、家庭で使える形にしました。焼きあご、かつお節、真昆布、うるめいわし、海塩。袋ごと煮出せば、料理店のだしに近い味になる。社主の河邉が好んだ、あごだしにこだわりました。
2006年、「茅乃舎だし」の販売が始まります。
じつは、通信販売で最初に勧めるつもりだったのは、だしではありませんでした。柚子胡椒をもとにした「生七味」です。だしは、カタログの隅に小さく載っただけでした。
ところが、だしの方がじわじわと売れていきます。だしの染みた大根が評判になり、お客様からはこんな声まで出たといいます。
「大根ごと売ってほしい」
売る側が推したものではなく、お客様が見つけたものが残った。茅乃舎だしの出発点は、そういう商品でした。
つまり、料理店は、だしを売るための店ではありませんでした。お客様が「家でも食べたい」と言ってくれる場所であり、その声を、醤油屋が商品に変えたのです。小袋にたれを詰めてきた工場の技術と、明太子で覚えた通信販売の道が、ここで一つにつながりました。
6坪の店から、東京ミッドタウンへ
だしが売れ始めても、会社はすぐには大きく打って出ませんでした。
2008年、福岡と首都圏で直営店を出し始めます。地元の百貨店に開いた店は、6坪の小さな売り場でした。そこへ、東京・六本木の東京ミッドタウンから声がかかります。出店の誘いは何年も続き、久原本家が引き受けたのは3度目の誘いでした。そのとき先方からは、こう言われたといいます。
「将来、世界に発信するブランドに入ってもらいたいのです」
2010年4月、茅乃舎は東京ミッドタウンに東京で初めての店を開きました。
心配はありました。九州で育った味が、東京の人の口に合うのか。その点を、河邉は2013年にこう語っています。
「味はまったく変えておりません。たしかに当初は味覚の違いを心配していました。」
私の見方では、味を変えなかったことが、そのまま店の個性になりました。評判は口コミで広がり、「だしなら茅乃舎」という言われ方が、社内も戸惑うほどの速さで広がりました。2013年4月には、ミッドタウンの店の売り場を3倍に広げ、だしを使った汁物を食べられる「汁や」も設けています。
河邉は、東京で店を持ってみて分かったことを、こう続けています。
「今さらながら感じるのは、東京というマーケットの大きさですね」
数字にも、その広がりが表れています。グループの売上高は、2012年6月期の連結で約129億円でした。2019年2月期には約260億円、2024年2月期には318億円になっています。12年ほどで、およそ2.5倍です。

店の売り方にも、料理店で覚えたことが生きています。東京駅の店では、だしパックを1袋ずつ、8種類の中から選んで買えるようにしました。河邉は「だしでも選ぶ楽しみがあっていい」と話しています。立川の店では台所の場所を設けて、どの商品も味を確かめてから買えるようにしました。年に4回は季節のレシピを郵送し、買った調味料を使い切ってもらう工夫もしています。
私は、これらを一つの考えから出たものとして読みます。だしは、売った時点で終わりではありません。台所で使われ、おいしいと思ってもらえて初めて、次の注文につながる。料理店でお客様の顔を見て覚えたことを、店と通販の仕組みに置き換えているのです。
店の数も増えました。2018年3月に東京・立川の高島屋に開いた店は22店目で、2025年6月には全国31店になっています。入社したときに6人だった会社は、いま1,300人を超える人が働くグループです。
払ったもの、守ったもの
ここまでの道のりは、まっすぐではありません。
自社ブランドを持つまでに、明太子で9年の赤字を抱えました。料理店は、山の中に茅葺きの家を建てるという、手間もお金もかかるやり方を選んでいます。茅葺きの屋根は20〜25年ごとに葺き替えが要ります。開業から20年目の2025年、店は約半年休んで屋根を葺き替え、6月19日に開き直しました。料理店を持ち続けるとは、こうした手間を引き受け続けることでもあります。
一方で、会社が手放さなかったものもあります。
一つは、手間をかけた分の値段をいただくことです。原料にこだわれば値段は上がり、数量にも限りが出ます。河邉は、福岡の百貨店に出たときに言われた言葉を紹介しています。安い店が増えたから売れなくなったと思っていたが、高くても久原の商品が売れるのを見て、お客様が欲しいものを届けられていなかったのだと気づいた、という言葉です。安さで大手と競わず、手間を価値に変える。料理店を持つ会社らしい選び方です。
もう一つは、売上の大きさを追いかけすぎないことです。河邉は「売上を追求してしまうと、お客様第一主義ではなくなり」と話し、店の数の目標も、20店を超えたあとは一つ一つの店の個性を重んじる方に切り替えました。
さらにもう一つは、名前の出し方です。久原本家の広報は、お客様が「久原本家」という会社の事業をすべて知らなくてもかまわない、という考えを示しています。お客様が覚えるのは、茅乃舎であり、椒房庵であり、キャベツのうまたれでいい。会社の名前より、商品の名前で選ばれることを選んだのです。
「これ下請けじゃないですか。」と言われた会社が、売り場で名前を覚えてもらう会社になった。私の見方では、それがこの会社の30年の変化です。
社史の目で見ると
醤油屋のだしは、なぜ工場ではなく、山の料理店から生まれたのか。
私は、料理店が「お客様の声が直接届く場所」だったからだと考えます。たれのOEMでは、お客様の声は取引先の向こう側にあって、聞こえません。明太子の9年で、河邉は店と通信販売という、お客様につながる道をつくりました。料理店は、その道のいちばん先にありました。だしは、そこで交わされた質問から生まれたのです。
社史に残すなら、次の三つの場面だと考えます。
一つ目は、パートの女性の「これ下請けじゃないですか。」という一言です。会社の向きを変えたのは、会議の決定ではなく、工場の中の一言でした。誰が、どんな顔で言ったのか。その場面は、言われた人の記憶にしか残っていません。
二つ目は、明太子の赤字が続いた9年間です。結果だけを見れば、成功の前の助走に見えます。けれども、その9年に何をやめ、何を続けたのかは、次の世代が同じ壁にぶつかったときの手がかりになります。
三つ目は、料理店のお客様が「家でも同じ味を」と言った日です。茅乃舎だしの始まりは、売り手の計画ではなく、お客様の質問でした。どの席で、誰が、どの料理を食べて聞いたのか。いまなら、まだ当時を知る人に聞けるはずです。
パートの女性が誰だったのか、最初にだしのことを尋ねたお客様がどんな人だったのか。こうした細部は、公開されている情報からはたどりきれません。売上高や店の数は、決算や発表に残ります。けれども、会社の向きを変えた一言や、商品が生まれたその日の様子は、当事者が語り、誰かが書き留めなければ残らないのです。
あなたの会社の看板商品は、誰のどんな一言から始まりましたか。
会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。
参考にした公開情報
- 地方創生ジャーナル「福岡の小さな醤油屋が起こした奇跡。独自の戦略でヒット連発の食品メーカーへ(前編)」(2019年11月15日)https://chihososei-journal.jp/feature/731/
- PRESIDENT Online「茅乃舎ブランドを開花した『多逢勝因』 久原本家 河邉哲司社長【前編】」(2017年8月19日)https://president.jp/articles/-/22848
- 厚生労働省 LO活プロジェクト「株式会社久原本家グループ本社 代表取締役社長 河邉哲司」(2017年2月1日)https://local-syukatsu.mhlw.go.jp/mystyle/20170201
- 久原本家 くばらの「をりをり」【物語2】九州の食文化を伝えたい。茅葺きの料理店、開業(2022年4月11日)https://www.kubara.jp/oriori/first_story_kayanoya2/
- 久原本家 くばらの「をりをり」【物語3】和食をもっと日本の食卓へ。だし誕生(2022年4月11日)https://www.kubara.jp/oriori/first_story_kayanoya3/
- 茅乃舎「茅乃舎ができるまで」https://www.kayanoya.com/abouts/history/
- JBpress「高級だし市場を生み出した『茅乃舎だし』、その根底に流れるまちづくりの哲学」(2023年9月19日)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/76999
- Precious.jp「だしで有名な『茅乃舎』の原点!茅葺き屋根も見どころのレストラン『御料理 茅乃舎』実食レポート」(2023年11月7日)https://precious.jp/articles/-/44148
- 女性自身「福岡発・芸能人の口コミで人気爆発!『茅乃舎だし』の秘密」(2015年5月30日)https://jisin.jp/life/living/1624490/
- NetIB-NEWS「首都圏で広がる『茅乃舎だし』(前)」(2014年3月5日)https://www.data-max.co.jp/2014/03/05/post_16456_ib1509.html
- ニュースイッチ(日刊工業新聞)久原本家の直営店戦略(2018年3月16日)https://newswitch.jp/p/12311
- 社長名鑑「株式会社久原本家グループ本社 河邉哲司」(2022年9月取材)https://shachomeikan.jp/presidents/detail/10062202
- 食品新聞(久原本家グループ 河邉哲司社主)https://shokuhin.press/shokuhin75/shokuhin75-29.pdf
- NetIB-NEWS 久原本家グループの伊豆本店子会社化(2024年4月26日)https://data-max.co.jp/article/70815
- 株式会社久原本家 プレスリリース「御料理 茅乃舎 リニューアル グランドオープン」(2025年6月19日)https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000207.000079541.html
連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。
※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、株式会社久原本家グループ本社とKATARUの間に関係はありません。
この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。
公開日:2026年10月24日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)