2017年、広島の山あいにある家具の工場に、大きな注文が届きました。
注文主は、アメリカ・カリフォルニアに新しい本社を建てていたアップルです。求められたのは、木のアームチェア。数は数千脚におよびました。椅子の名は「HIROSHIMA」といいます。
つくったのは、広島市の中心から車で1時間ほどの湯来町に工場を構えるマルニ木工です。1928年に創業した、まもなく100年を迎える家具メーカーです。
意外なのは、その十数年前のことです。この会社は、ピーク時に300億円あった売上が100億円を切り、資金繰りに追われていました。そして、のちに会社を率いる跡継ぎたちは、口をそろえてこう振り返っています。自分の会社の家具を、自分で欲しいと思えなかった、と。
なぜ、自社の家具を欲しいと思えなかった跡継ぎたちが、世界の会社に選ばれる椅子を生み出せたのか。手がかりは、ある工場見学のあとに届いた1通のメールにあります。
- 1928年 広島で「昭和曲木工場」として創業
- 1968年 「ベルサイユ」シリーズが大ヒット
- 1991年度〜 売上が毎年下がり続ける
- 2001年 のちの社長・山中武が入社
- 2004年 深澤直人が工場を訪れる
- 2005年 外部デザイナーと組む「nextmaruni」を始める
- 2008年 深澤直人のデザインで「HIROSHIMA」を発表
- 2017年 アップルの新本社から数千脚の注文
- 2023年 G7広島サミットの会議の席に使われる

「工芸の工業化」で伸びた会社
マルニ木工の始まりは、1928年に広島で設立された「昭和曲木工場」です。社名のとおり、木を曲げる「曲木(まげき)」の技術で家具をつくる工場でした。1933年に「沼田木工所」と合併し、いまの社名になっています。
戦争中は家具づくりを止め、零戦の木製の補助燃料タンクや木製の尾翼を手がけた時期もありました。戦後は工場の配置を組み直し、木材を人工的に乾かす研究を進め、新しい機械を入れていきます。
1960年代には、木を立体的に削り出す機械を取り入れました。1965年にアメリカから入れたあと、翌年には、それをもとに自社独自の機械をつくっています。手で彫っていた装飾を、機械で量産できるようにしたのです。
この会社には、長く掲げてきた言葉があります。「工芸の工業化」です。職人の手でしかできなかった美しい家具を、工業の力で、多くの人の手に届く値段でつくる。1968年に出したクラシック家具の「ベルサイユ」シリーズは、大ヒットになりました。
売上は、ピーク時に300億円にのぼったといいます。
300億円から、100億円割れへ
流れが変わったのは、1990年代です。
マルニ木工の売上は、1991年度から毎年下がり続けました。人びとの好みが変わり、景気も冷えこんでいきます。それ以前の需要に合わせて、中国やタイにも工場を開いていました。
2001年、ひとりの若者がこの会社に入ります。山中武。創業家の一員で、それまでは銀行で働いていました。のちに本人は、入った時点で資金繰りが厳しく、ゴールデンウィークには会社がだめになるかもしれない状態だった、と振り返っています。
「ピーク時に300億の売上を立ててた会社が100億を切って、一番しんどい時期でした」
立て直しのなかで従業員はおよそ半分になり、2009年には本社と工場が湯来町の一か所にまとめられます。
山中は、このころの社内をこう語っています。
「何か変えなければと言い続けていたのに、何もしていなかった」(英語の発言を筆者が訳したもの)
「自分で欲しいと思えなかった」
山中武が最初に考えたのは、会社が生き残ることでした。のちに「とにかく会社が生き残ればいいんだろ?」と考えていた、と語っています。初めは、借金をなくし、経常利益率10%を目指すことが目標でした。
けれども、数字を追ううちに、ひとつの疑問が大きくなっていきます。
「すごくいい技術があって伝統もあるのに、なぜ立ち行かなくなるんだろうと」
答えを探して自社のカタログを眺めたとき、山中は気づきます。そこに、自分の欲しいと思える家具がなかったのです。デザインが変わらないと、会社は変わらないのではないか。そう考えるようになりました。
同じことを感じていた人が、もうひとりいました。いとこの山中洋です。アメリカから戻り、山中武より少し早い1999年に入社していました。のちに社長となる洋は、当時をこう語っています。
「何より残念だったのは、親父たちがつくってきたものを見て、それがよくできた家具だとわかっていても、自分で欲しいと思えなかったことです」
よくできているのに、欲しくない。技術はあるのに、売れない。ふたりの跡継ぎが感じていたのは、つくる力と、使う人の暮らしとのずれでした。自分たちで企画すると、どうしても受け継いできたクラシック家具の延長になってしまう。洋は「突破口が見えなかった」と言います。
1通のメール
突破口は、社外から来ました。
2004年、プロダクトデザイナーの深澤直人が、マルニ木工の工場を訪れます。そのあとに届いたメールが、ずっと心に引っかかっていたといいます。書かれていたのは、こういう内容でした。
せっかく素晴らしい技術があるのに、最後に塗料をベタベタ塗ってしまうのはもったいない。
マルニ木工にとって、耳の痛い言葉だったのではないでしょうか。書き手の見方では、深澤が見ていたのは、塗る前の部材です。機械で正確に削り出され、職人の手で磨かれた木。その技術こそがこの工場の財産で、塗料はそれを隠している。そう読める指摘です。
ただ、この言葉が形になるまでには、もう少し回り道が要りました。
12組のデザイナーと、現場のブーイング
2005年、デザイナーの黒川雅之の提案で「nextmaruni(ネクストマルニ)」というプロジェクトが始まります。世界から12組のデザイナーを招き、マルニ木工の工場で椅子をつくってもらう試みです。参加者には、建築家の妹島和世、のちに深く関わるジャスパー・モリソン、そして深澤直人もいました。作品はミラノサローネで発表されます。
このプロジェクトには、ひとつの決まりがありました。
「会社の体質を変えるため、過去を断ち切って従来のマルニ木工を否定するのがnextmaruniのルールでした」
洋はそう振り返り、こう続けています。
「その結果、社内の現場ではブーイングも大きかった」
nextmaruniは、ビジネスとしては必ずしもうまくいきませんでした。
ここで会社は、やり方を変えます。広く浅く、多くのデザイナーと組むのではなく、ひとりのデザイナーと腰を据えて、じっくりものづくりをする。その相手が、12組のうちのひとりで、工場を見て塗料の話を書き送ってきた深澤でした。
「僕はデザインのプロだが」
深澤は、マルニ木工の人たちにこう伝えたといいます。洋が紹介している深澤の言葉です。
「僕はデザインのプロだが、マルニ木工はものづくりのプロ」
つくりやすくする方法、費用を下げる方法があれば、どんどん言ってほしい。深澤は最初にそう伝えた、と洋は語っています。書き手の見方では、過去を否定するところから始まったnextmaruniとは逆に、現場の知恵が設計の真ん中に置かれたことになります。
深澤は「身体に訊け」と繰り返したといいます。山中武は、それが座り心地のよさにつながったと見ています。
工場の側でも、変化が起きていました。2007年、マルニ木工はトヨタ生産方式を取り入れます。ものづくりの土台も、見直しが始まっていました。
「8万円でいく!」
2008年、マルニ木工は深澤直人のデザインによる「MARUNI COLLECTION」を発表します。その中心にあったのが、木のアームチェア「HIROSHIMA」でした。名前を付けたのは深澤です。山中武によると、深澤は、一度聞いたら忘れない名前で、平和の象徴でもある、と考えたそうです。
同じ年、山中武は38歳で社長に就きます。
HIROSHIMAの値段をめぐって、山中は「8万円でいく!」と主張しました。社内には反発もありましたが、つくり方の改善を重ねて、その値段で成り立つようにしていきました。手間のかかる美しさを、手の届く値段で。創業以来の「工芸の工業化」を、もう一度やり直したともいえます。
このとき、洋の胸にあったのは、好き嫌いではありませんでした。
「そのときは好き嫌いより、これが売れなかったら会社がなくなるという危機感のほうが強かった」
売れなかった椅子が、伊勢丹で動き出す
HIROSHIMAは、出してすぐに売れたわけではありません。
最初に目を留めたのは、伊勢丹新宿店でした。まだクラシックな家具が並ぶ百貨店が多かったころです。洋は、伊勢丹の担当者から、マルニさんが変わるなら一緒にプロモーションをかけましょう、と声をかけられたと振り返っています。
山中武は、客の様子を見ていて、あることに気づきます。
「でもよく見ていると、みんな肘から背の部分をさわっていくんです」
HIROSHIMAの肘は、倍の長さの部材を真ん中で切り、木目が左右対称になるようにしています。機械で削り出したあと、仕上げは職人が手で磨きます。書き手の見方では、その手ざわりが、客の手を引きつけていたのでしょう。
数字にも表れます。発売当初は月40脚ほどだったHIROSHIMAアームチェアは、2012年には多い月で400脚ほどまで伸びました。2014年には、多い月に600脚をつくれるようになっています。機械の配置と物の流れを見直したこと、削り出しの精度が上がって手磨きの手間が減ったこと、職人が慣れたこと。この3つが理由だといいます。
洋はのちに、削り出しにかかる時間についてこう語っています。
「最初は1脚40分くらいかかっていたものが、今は15~20分程度でできるようになった」
そして、こう付け加えました。
「こういう工夫も、工芸の工業化です」

節のある木も、売り物にする
会社は、売り方も変えていきました。
工場見学の受け入れを始めたのは、2008年です。きっかけのひとつは、同じ木工の会社である飛騨産業の助言でした。見て真似される技術は、その会社だけのものではないだろう、という言葉です。2015年ごろには、毎年およそ500人が工場を訪れるようになっていました。
2011年3月には、節や染みのあるHIROSHIMAアームチェアを、伊勢丹新宿店で売り出しました。用意した30脚は、わずか1週間で売り切れたといいます。節やしみも、木の個性として受け止めてもらえるのではないか。山中武はそう感じていましたが、売れるかどうかは試してみるまでわからなかった、と語っています。
1口5万円で出資を募るファンド(マルニ木工ファンド2012)もつくりました。銀行からの借り入れとは別に、お客様とつながりながらお金を集める方法です。山中はこれを「プチ上場とも呼べる資金調達の新たな選択肢」と表現しています。
売上は、2010年度に上向きに転じました。2012年度の売上はおよそ26億円の見込みで、黒字に転じる見通しも立ちます。山中は「やっとここまで来た」と語っています。
ミラノから、アップルへ
海の外でも、扉が開いていきます。
2009年、マルニ木工はミラノサローネにMARUNI COLLECTIONを出展し、4社の取引先を得ます。2011年には、ジャスパー・モリソンがMARUNI COLLECTIONのデザイナーに加わりました。以後、毎年ミラノに出展し、取引のある国は2014年に26か国、いまは30か国を超えています。
そして2017年、アップルの新本社から数千脚の注文が届きました。
2023年5月には、広島で開かれたG7サミットの会場で、HIROSHIMAアームチェアと直径3.6メートルの丸テーブルが使われています。広島の名を持つ椅子が、広島での国際会議の場に置かれました。
2024年の時点で、MARUNI COLLECTIONは会社の売上の半分を占めています。
なぜ、これほどの再起ができたのか。山中武は、こう答えています。
「現場が持つ技術力と感性が合ったんだと思います」
そのとき、会社が動いた
マルニ木工の転機は、2008年のHIROSHIMAにあるように見えます。けれども、書き手の見方では、会社が本当に動いたのは、その少し前、2004年の工場見学のあとに届いた1通のメールを、ひとりのデザイナーと組む道として生かすと決めたときです。
nextmaruniで会社は、過去を否定するところから始めました。思い切った挑戦でしたが、現場は反発し、ビジネスとしても思うようにはいきませんでした。深澤直人のメールが示していたのは、逆の道です。過去を捨てるのではなく、過去の中にある本当の強みを見つけ直すこと。塗料の下に隠れていた、削り出しと手磨きの技術です。
跡継ぎたちが自社の家具を欲しいと思えなかったのは、技術が劣っていたからではありません。洋の言葉を借りれば、自分たちの世代のライフスタイルに合わなかったのです。だからこそ、デザインの力で技術を見せ直したとき、工場は息を吹き返しました。
もうひとつ、見落とせないことがあります。「工芸の工業化」という長く掲げてきた言葉を、会社は手放さなかったように見えることです。手間のかかる美しさを、手の届く値段で。HIROSHIMAで変わったのは形と仕上げで、その言葉の中身は変わっていません。1脚40分ほどかかった削り出しを15〜20分に縮める工夫まで含めて、洋はそれを「工芸の工業化」と呼びました。
ここに、会社の歴史を残すことの意味があるように思います。
危機のとき、会社は何かを変えなければなりません。けれども、変えてはいけないものもあります。どちらがどちらかは、会社の歩みをたどってみないとわかりません。マルニ木工にとって、変えるべきは家具の顔で、守るべきは「工芸の工業化」でした。その区別ができたのは、書き手の見方では、1928年から続く工場の技術と言葉が、まだ社内に生きていたからです。
まもなく創業100年を迎えるマルニ木工は、湯来の工場を「世界中の木工を志す人が一度は行きたいと思う場所にしよう」としています。工場そのものを、世界に向けて開こうとしているのです。
あなたの会社にも、塗料の下に隠れている強みはありませんか。
会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。
参考にした公開情報
- 日本経済新聞「『販路』まで設計し直し 木製チェア会社の高い志」(日経デザイン2012年9月号より)https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK12040_S2A011C1000000/
- 日本仕事百貨「HIROSHIMAから世界へ/株式会社マルニ木工」(2014年9月30日)https://shigoto100.com/2014/09/maruni-2.html
- PARTNER「広島から世界の定番家具を目指す OA vol.6 株式会社マルニ木工 山中武」(2015年ごろ)https://partner-web.jp/article/?id=492
- HONTOOBOYS「#33 マルニ木工・山中武『デザインが会社を変える』」(2021年6月1日)https://note.com/hontooboys/n/n9472b621bb75
- R100 TOKYO「デザインの力を生かし、世界を相手に壁を越えていく『マルニ木工』」(2022年1月)https://r100tokyo.com/curiosity/innovation/220104/
- AXIS Web「マルニ木工がクラシック家具『Tradition』シリーズをリブランディングした理由」(2024年11月7日)https://www.axismag.jp/posts/2024/11/623725.html
- WIPO「マルニ木工 — モノづくりの世界で改革をすすめ、伝統を守る」(2024年7月更新)https://wipo.int/ja/web/ip-advantage/w/stories/maruni-japan-revolutionizing-traditional-crafting-safeguarding-heritage
- FRaU「体感! 日本の『ほんもの』の輝き~レクサス×マルニ木工×JAXURY」(2023年10月13日)https://gendai.media/articles/-/117522
- Monocle「Maruni Wood Industry」(2010年11月号)https://monocle.com/design/maruni-wood-industry-japanese-furniture/
連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。
※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、マルニ木工株式会社とKATARUの間に関係はありません。
この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。
公開日:2026年10月21日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)