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そのとき、会社が動いた。

売れないベルは風鈴になった

能作が自分の名で売るまで

能作の転機を、公開情報からたどります。

2001年、東京・原宿。ある展示会の一角に、真鍮でできた小さな卓上ベルが並びます。つくったのは、富山県高岡市の鋳物工場、能作です。創業は1916年。それから85年、この工場は仏具や花器を鋳造しては問屋へ納めてきました。自分たちの名前を付けて世に出す製品は、このベルが初めてでした。

ベルは会場で人目を引き、翌2002年には「能作」の名を付けて店に並びます。ところが、売れません。扱ってくれた12の店を合わせても、3か月で30個。一店あたり、ひと月に1個にも届かない数です。

流れを変えたのは、工場の外にいた人のひと言でした。ある店の販売員が、音色がいいのだから風鈴にしてはどうか、と勧めたのです。形を変えた風鈴は1個4,000円。それが3か月で3,000個売れます。売れた数で、100倍です。しかもこの会社は、2019年になっても営業部を置いていませんでした。問屋の向こうの客を知らなかった下請けの工場は、何を先にして、自分の名前で売る会社になったのか。手がかりは、売れなかった30個の側にあります。

第1章 「生地屋」の工場

高岡の鋳物は、江戸時代の初めにさかのぼります。1609年に高岡城へ入った加賀藩の前田利長が、7人の鋳物師を招き、1611年に城下で鋳物の工場を開かせた。それが始まりとされています。1975年には「高岡銅器」として、国の伝統的工芸品の第一次指定を受けました。

この産地は、工程ごとに工房が分かれる分業で成り立ってきました。そのなかで能作が担ってきたのが、「生地屋」と呼ばれる仕事です。鋳造して形をつくり、仕上げの手前の品を問屋に渡す。売り先を決めるのは、問屋の側です。

「もともと、当社は生地屋と言って」。のちに克治氏は、かつての自社をそう説明しています。仏具や茶道具などを鋳造して、そのまま問屋に出す。どこで誰が買い、どう使われたのかは、工場まで届かない仕組みでした。

この工場に、1984年、一人の新聞社のカメラマンが入ります。1958年に福井県で生まれ、大阪芸術大学で写真とデザインを学んだ能作克治氏です。報道の現場で3年働いたあと、能作家の一人娘と結婚し、義父が率いる鋳物の工場に入りました。義父もまた婿養子だったと、克治氏は明かしています。

入ったのは、社員が7〜8人だったころです。手がけていたのは、問屋から受けた仏具や花器でした。カメラマン時代に500万円を超えていた年収は、職人になって150万円に下がったといいます。3分の1以下です。

克治氏は1,200度を超える熱の前で、18年間、鋳造の現場に立ち続けます。入社からおよそ10年がたつころには、問屋から高岡で1、2を争う鋳物屋と見られるようになっていた、と克治氏は振り返っています。

腕は認められていきました。けれど、工場の外の目は別でした。

ある日、小学校の高学年の男の子と母親が、工場を見たいと訪ねてきます。案内を終えたとき、母親は息子にこう言いました。「よく見なさい。ちゃんと勉強しないと、あのおじさんみたいになるわよ」。克治氏はこのとき、「鋳物職人の地位を絶対に取り戻す」と誓ったと書き残しています。

能作は1990年から、工場見学を無料で受け入れていました。高岡銅器は衰退産業ではない。高岡の鋳物の技術は世界に通用する。それを地元の人に示すため、と克治氏は説明しています。

ここで、産地の数字を並べておきます。中小企業庁の審議会に出された資料によれば、高岡銅器の販売額は1990年の374.5億円が頂点でした。2000年には203.7億円、2014年には117.2億円。仏具や花器の需要が減り、安い輸入品が入ってきたことが理由に挙げられています。四半世紀で、およそ3分の1です。

能作が見学の扉を開けた1990年は、産地がいちばん大きかった年でした。そして、そこから産地は縮んでいきます。生地を問屋に納めるだけでは、同じ坂を下ることになる。工場が自分の製品を持つ日は、その坂の途中でやってきます。

第2章 30個と3,000個

きっかけは、一つのボウルでした。

1999年、高岡市のデザイン・工芸センターで勉強会が開かれます。勉強会をまとめた専門家が例に挙げたのは、イタリアのキッチン用品ブランド、アレッシィのステンレスのボウルでした。東京では、これが素材感のある食器として受け入れられている。この説明を聞いたことが、能作の自社製品づくりの出発点になりました。

最初の製品に選んだのは、ベルです。工場が扱ってきた真鍮はよく鳴る金属で、能作は仏具のおりんで定評を得ていました。和の鳴り物を洋のかたちにつくり変えればヒットする。克治氏はそう考えたと振り返っています。

2001年に原宿の展示会で目を引いたベルは、翌2002年、自社ブランド「能作」の第一号として店に並びます。ところが、結果は12店舗で3か月に30個でした。克治氏はのちに、「日本のライフスタイルに合っていない製品をつくってしまったわけです」と述べています。日本の家には、卓上のベルで家族を呼ぶ習慣がほとんどありません。技術は足りていた。足りなかったのは、使われる場面のほうでした。

ここで大事なのは、その失敗を誰が教えたかです。問屋を通していたころなら、売れ行きの理由は工場まで届かなかったでしょう。今度は違います。売り場に立つ販売員が、ベルを手に取り、鳴らし、音を聞いていました。そのうえで出てきたのが、「音色がとてもいいから風鈴にしたらどうか」という提案です。

吊るして、風を受けて鳴るようにする。ベルは風鈴になりました。1個4,000円。それが3か月で3,000個です。

30個と3,000個。違いは技術ではありません。音を、暮らしのどこに置くかでした。

同じ2002年、克治氏は社長に就き、会社は株式会社能作として新しく歩み出します。高岡の生地屋が、初めて自分の名前を売り場に出した年です。

ただ、風鈴には限りがありました。使う季節も、使う場所も決まっています。次の一手もまた、売り場の側から届きます。

第3章 曲がるなら、曲げればいい

「能作さん、食器をつくると売れると思いますよ」。

風鈴を扱っていた店の販売員の言葉でした。食器なら、季節を選びません。ところが、工場が得意としてきた銅の合金は、色が変わりやすいうえに、食品衛生の決まりから食器には使えない。そこで目を付けたのが錫です。菌を寄せつけにくく、食器に使える金属でした。

錫の器は、ほかの産地にもありました。ただし、多くはほかの金属を混ぜた合金です。ほかの産地の真似をして迷惑をかけることはしたくない、と克治氏は述べています。選んだのは、錫だけで鋳造する道でした。世界に類を見ない、錫100%の食器です。2003年、能作は錫100%の製品の開発に取りかかります。

ところが、純粋な錫はとても柔らかい。指で力を加えれば曲がってしまいます。ふつうは硬さを出すために、ほかの金属を加える。錫100%にこだわれば、その手が使えません。

この壁を越えた言葉は、デザイナーの小泉誠氏から出てきました。「やわらかいのだから、硬くしなくていい」「曲がるなら、曲げてしまえばいい」。

弱点を消すのではなく、使い道にする。平らな網目の板を手で曲げれば、かごにも皿にもなる。こうして生まれたのが「KAGO」のシリーズです。買った人が、自分で器の形を決める。売り手が使い方を決めない器でした。

克治氏は、この転換を大げさには語りません。「わらをもすがる思いで素直にやってみようとトライしただけです」。

振り返ると、ベルを風鈴に変えたのは販売員、錫を勧めたのも販売員、曲げる発想はデザイナーでした。能作の製品の転機には、いつも工場の外の声があります。そしてそれを、職人の腕で形にしてきた。外の声を聞き、つくるのは自分たち。この分担が、生地屋から名を名乗る会社への橋になりました。

KAGOは累計20万個に達したと報じられ、工場の主役の金属は真鍮から錫へ移りました。

では、営業部を持たない会社は、どうやってその名前を広めていったのか。

第4章 売るより、見せる

「メーカーの仕事は『つくる』ことであり、『売ることではない』と僕は考えています」。

克治氏の言葉です。能作は営業担当を置かず、年に2、3回の見本市に出ることを、製品を知ってもらう主な場にしてきました。興味のない人にも繰り返し見せる。異業種の人から「こういう物をつくってほしい」という依頼を引き出す。売り込むのではなく、見せて、頼まれる。そういう順番です。

見せる先は、海の向こうにも広がりました。

2008年、ニューヨーク。マンハッタンのニューヨーク近代美術館(MoMA)には、館が選んだ品だけを並べるデザインストアがあります。その販売品に、能作のオリジナルデザインのハンドベルが認められました。原宿の展示会から7年。3か月で30個しか売れなかったのと同じ、ハンドベルという品目です。日本の家では行き場のなかった品目が、ニューヨークで選ばれたことになります。

2014年にはミラノに店を出したと報じられ、2017年にはKAGOもMoMAのデザインストアに選ばれます。

かつて能作の鋳物は、問屋の名前で店に並んでいました。いまは能作という名前そのものが、店の看板になっています。

それでも、能作の「見せる」には、もう一つの舞台がありました。海外の店よりも先に始めていた、高岡の工場そのものです。

第5章 町工場に、12万人が来る

2017年4月、能作は高岡市オフィスパークに新しい本社工場を開きます。

この年の売上は約13億円。建物に投じたのは約16億円でした。年の売上を上回る額を、一つの工場に注いだことになります。新しい工場は生産の力を1.5倍に高め、同時に、見学のための場として建てられました。鋳造の現場をめぐる工場見学に、鋳物づくりの体験工房とカフェ。前の年の2016年9月には、社内に産業観光部が設けられていました。

移転前は年に約1万人。新しい工場は2万人を見込んでいました。出足を見て目標は5万人に引き上げられ、2019年には月1万人、年12万人のペースに。12倍です。

立地だけを見れば、不利な場所です。北陸新幹線の新高岡駅から、タクシーで15分ほど。料金は昼間でも3,000円を超えます。それでも、高岡の観光の名所として、瑞龍寺に次ぐ位置まで来場者を集めるようになったと報じられました。

1990年に見学を始めたとき、克治氏が挙げた目的は、高岡の鋳物の仕事を地元の人に見せることでした。16億円の工場は、その延長に建っています。大きな投資の手前には、27年続けてきた無料の見学があったのです。

ここで、第1章の親子に戻ります。

見学に来た小学生から「ディズニーランドよりも楽しかった」という言葉をもらったこともある、と克治氏は紹介しています。

かつて見学の親子の会話に、職人の仕事が引き合いに出された現場です。そこが、子どもに遊園地よりも楽しいと言わせる場所になった。職人の地位は、売上や来場者数だけでなく、こうした一言にも表れる。そう読むこともできます。

新社屋は日本サインデザイン大賞(経済産業大臣賞)などを受けました。2019年9月には東京・日本橋に、23坪の路面店を開きます。

見せる場所は、さらに外へ延びます。2019年には、結婚10年目を祝う「錫婚式」を始め、2020年には地域を限った旅行業の資格を取りました。工場見学と鋳物づくりの体験、近くの宿を組み合わせた旅を、自分たちで売れるようにしたのです。工場が、旅の行き先になりました。

第6章 名前を継ぐ

2023年3月20日、能作は株主総会と取締役会で新しい役員を選びます。代表取締役会長に克治氏。代表取締役社長には、長女の能作千春氏が就きました。

千春氏は通信販売の会社で働いたあと、2010年に家業に入っています。物流の部署などを経て2016年に取締役となり、新しい工場への移転を機に産業観光部の部長として、見学や体験の事業を立ち上げてきました。錫婚式を企画したのも千春氏です。

社長に就いた千春氏が掲げたのは、「人と、地域と、能作」という言葉でした。並び順に目を留めておきたいところです。人が先で、地域が次。会社の名前は最後に来ます。

数字を並べておきます。2019年の時点で、社員は克治氏の社長就任時の15倍になっていました。2024年11月には、グループで255人です。店は国内に21、台湾に2つ。台湾には流通とOEMを担う会社も持っています。

2025年4月、能作は特許庁の令和7年度「知財功労賞」で、デザイン経営企業として表彰されることが決まりました。発表に添えられた事業の一覧には、錫100%の食器、真鍮のインテリア用品と並んで、仏具、茶道具、花器が残っています。産業観光と錫婚式の事業も、同じ並びに書かれていました。

能作は、仏具の生地屋だった過去を捨てたわけではありません。仏具の上に、風鈴を、食器を、工場見学を、旅を、積み重ねてきた。その積み重ねの順番が、そのまま会社の歩みになっています。

終章 社史の目で見ると

能作の歩みを社史の目で読むと、残しておきたいものが三つ見えてきます。

一つめは、売れなかった数字です。3か月で30個。この数字は、普通の年表には載りません。けれど、30個があったから3,000個が意味を持ち、ハンドベルがMoMAに選ばれた2008年にも別の重みが生まれます。失敗した製品と、その数字と、なぜ合わなかったのかという当事者の言葉。それを残しておくことは、会社の判断の出発点を残すことです。

二つめは、外から届いた一言です。風鈴にしたらどうか。食器をつくると売れる。曲がるなら曲げればいい。能作の転機の多くは、社外の人の言葉から始まっています。見学に来た親子の会話でさえ、克治氏の誓いとして、その後の歩みに書き込まれています。誰が、いつ、何を言ったのか。会社の記憶は社内の議事録だけでは足りません。外の声を受け止めた日を、言葉ごと記録しておく価値があります。

三つめは、早すぎた始まりです。無料の工場見学は1990年に始まり、16億円の工場は2017年に建ちました。そのあいだ27年。大きな投資の日だけを記録すると、その会社が何をずっと続けてきたのかが見えなくなります。小さく始めて、やめなかったこと。その起点の日付と理由を書き残すことで、のちの大きな決断の筋道が読めるようになります。

問屋に生地を納めていた工場が、自分の名前を店の看板にするまで。その道のりには、売れなかった日と、他人の一言と、ずっと続けてきたことがありました。

あなたの会社の「そのとき」は、いつでしたか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

株式会社能作の発表・寄稿

公的機関の資料

報道・インタビュー

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月15日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)