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そのとき、会社が動いた。

「高い、買えない」と言われて

スノーピークが問屋をやめるまで

スノーピークの転機を、公開情報からたどります。

1998年10月、山梨県の本栖湖に近いキャンプ場「ヤナセ本栖パーク」。新潟県三条市のアウトドア用品メーカー、スノーピークが、社員とお客様がいっしょにテントを張って泊まる催しを初めて開きました。名前は「スノーピークウェイ」。アウトドア誌に広告を出して、集まった応募は30組でした。

焚き火を囲んで、社員は自社の製品について率直な声を聞きました。返ってきた言葉は、ほぼ二つにまとまります。高い。そして、買えない。

社長の山井太さんは、週末の催しを終えて日曜に帰るときには、腹をくくらなければならないと考えていました。翌週の月曜、朝礼で社員にこう伝えます。問屋との取引をやめる。売ってくれる店を、4分の1に減らす。

このころ、スノーピークの売上は1994年から毎年落ち続けていました。売上が細っている会社が、自分から売り先を減らしたのです。

それでも会社は立ち直り、のちに上場するまで伸びていきます。売る場所を減らして、なぜ売上が戻ったのか。答えは、あの週末に聞いた二つの言葉の中にありました。

スノーピークの歩み(この記事に出てくる主な年)

動く前の会社:いいものを作っているのに、なぜ売れなくなったのか

スノーピークの始まりは、金物の町・三条の小さな商店です。1958年、山井幸雄さんが金物などを扱う店を開きます。翌1959年には、市販の登山用品への不満から自分で道具を考え、全国に売り始めました。

使う人としての不満が、作る理由になる。この会社の出発点は、そこにありました。覚えておいてください。40年後、同じ形の出来事がもう一度起きます。1963年には「スノーピーク」の名を商標として登録しています。

長男の太さんが家業に入ったのは1986年7月のことです。それまでは東京で輸入ブランドを扱う会社に勤め、商品の企画と営業をしていました。東京で暮らすうちに、自然から離れて自分がからからに乾いてしまったように感じた、と太さんは振り返っています。

当時の会社の売上は約5億円。そのうち4億円は釣り具でした。山の道具の会社というより、釣り具の会社だったのです。

太さんが目をつけたのは、車に道具を積んで出かけるキャンプでした。山に登るのではなく、家族で自然の中に泊まる遊び方です。1987年の暮れまでに、オートキャンプの道具をおよそ100品つくり、1988年から売り出しました。

なぜ、そこに目をつけたのか。当時、車の登録台数のおよそ1割が四輪駆動車だったと、太さんは語っています。外へ出たい人はたくさんいるのに、その人たちに向けた道具を出す会社がない。登山ではないアウトドアを求める人が、まだ形にならない需要として眠っていた、という見立てでした。

新しい事業は、太さんがほぼ一人で立ち上げたものです。社内で小さな会社を起こすような始まり方でした。初年度は、売上をおよそ8,000万円押し上げ、13%伸ばしたと太さんは記憶しています。小さな一歩です。けれど、翌年から伸び方が変わっていきます。

ここでスノーピークは、安さで勝負しませんでした。当時のテントは2万円前後が主流だったなか、16万8000円の高機能テントを出し、100張を売っています。使う人として欲しいと思えるものを作り込めば、必ず買う人がいる。そう確かめた出来事だったと、太さんは語っています。

オートキャンプは流行になり、会社は一気に大きくなりました。1993年の売上は25.5億円。太さんが入社したころの5倍です。

売上の柱は、わずか5年ほどで釣り具からキャンプ用品に入れ替わりました。高くても、本当に欲しいものなら買う人がいる。この手応えが、スノーピークの作り方の土台になります。

ところが、流行は去ります。1994年から1999年まで、売上は6期続けて減りました。1999年には14.5億円まで落ち、経常利益は3.5億円から0.4億円になっています。太さんが社長を継いだのは、その坂道の途中の1996年でした。

「私が1996年に社長を継いだ時はマイナスからのスタートでした」と、太さんは振り返っています。

売上が落ちた理由の一つは、ブームが去ったことだったと、太さんはみています。流行に乗って伸びた分は、流行とともに引いていきました。

製品が悪くなったわけではありません。それなのに売れない。現場を見ている営業の社員のほうが、社長の自分よりも沈んでいたと、太さんは語っています。ある営業の社員は、もう自分たちの存在理由が分からない、と口にしたといいます。

自分たちは、誰のために働いているのか。この問いが、のちに会社の形を変えることになります。

そのとき:客の声を聞いて、なぜ値下げではなく、売り方そのものを変えたのか

その社員と話す中で、もう一つの言葉が出てきます。ユーザーさんの顔を見たら元気になれる。

この一言が、催しのきっかけになります。お客様と社員がいっしょにキャンプをして、焚き火を囲んで語り合う。それが1998年10月、本栖湖のほとりで開かれた第1回「スノーピークウェイ」でした。

焚き火を囲んで語り合う時間は、のちにこの催しのいちばんの見どころになります。問屋と店を間にはさんでいた作り手と使い手が、同じ火の前に座る場です。

集まったのは、わざわざ応募してくれた、スノーピークの道具を使う人たちでした。その人たちが、口をそろえて同じことを言います。

一つは値段です。「スノーピークの製品が非常に高い」ということを、参加した全員が口にしたと、太さんは語っています。

もう一つは、店でした。参加者の暮らす地域にも、スノーピークを扱う店は4、5軒ありました。ところが、どの店に行っても品ぞろえが薄く、欲しいものが買えない。

「高い、買えないという強烈なフィードバックが2つあったんですね」と、太さんは語っています。

どちらも、製品そのものへの不満ではありません。道具はいい。けれど、手に届かない。そういう声でした。

ここで大事なのは、二つの声が別々の問題ではなかったことです。

当時の売り方は、メーカーから問屋へ、問屋から小売店へと品物が流れる形でした。品物が手を渡るたびに、それぞれの取り分が値段に乗ります。太さんはのちに、この流通の取り分を削ることに挑んだと語っています。しかも売り先は約1,000店に広がっていて、1店あたりに置ける品数は限られていました。高いのも、買えないのも、元をたどれば同じ流れ方から来ていたのです。

催しは土日でした。日曜に帰るときには腹をくくらなければならない、と考えていたと、太さんは語っています。

そして翌週の月曜、朝礼で決めたことを社員に伝えました。最後の判断は、お客様の声で決めたと、太さんは振り返っています。

ただし、すぐには変えられません。1999年の商売は、その時点でもう契約が済んでいました。動かせるのは、2000年のシーズンからです。

2000年から変えると決めたのは、次の三つでした。

結果として、売る店は約1,000店から250店になりました。4分の1です。

売り方の前と後(問屋を通す形から、小売店と直接取引する形へ)

「1商圏1店舗」とは、ひとつの地域にスノーピークを扱う店を原則1軒にする、という考え方です。店の数を競うのではなく、1軒ごとの品ぞろえを厚くする。お客様が、そこへ行けば全部あると分かる店を、地域ごとに一つずつ置いていく形でした。

「我々の真のお客様は問屋さんでもなく、小売店さんでも無く、ユーザーさんですよね」と、太さんは語っています。

自分たちは誰のために働いているのか。営業の社員が見失いかけていた問いに、社長が出した答えがこれでした。

値段だけを下げる道もあったはずです。けれど、それでは「買えない」は解けません。品ぞろえの薄い店がいくら値札を書き換えても、欲しい道具は店頭にないままだからです。売り先を減らせば、1店あたりに全製品を置けます。間を抜けば、値段も下がります。二つの声に、一つの手で答えたのです。

その後:店を減らして、何を得て、何を払ったのか

2000年のシーズンから、スノーピークの製品は35%安くなりました。お客様は車で30分から1時間走れば、すべての製品がそろった店にたどり着けるようになります。

値段が下がっただけではありません。残った店は、スノーピークの製品をすべて置く約束で取引を続けた店です。高い、買えない。二つの不満が、同じシーズンに片づいたことになります。

太さんはこれを、言ってくれたことへの最低限の誠意ある答えだったと振り返っています。

数字は、その後に追いつきました。市場は2000年代も縮んでいたと思う、としたうえで、2000年から2010年の間に売上は2倍になったと、太さんは語っています。2010年12月期(決算期を変えたため13か月)の単体の売上は約29億円。1999年の14.5億円のほぼ2倍で、ピークだった1993年の25.5億円も上回りました。

スノーピークの売上の移り変わり(1986年、1993年、1999年、2010年)

もちろん、払ったものもあります。

まず、それまで扱ってくれていた4分の3の店との取引です。それまで取引してきた問屋との関係も、ここで終わりました。さらに、決めてから実際に変わるまで、まる1年待たなければなりませんでした。売上が落ち続ける中で、新しい形を始められない1年です。

しかも、その1999年こそが、6期続いた減収の底でした。売上は14.5億円。決断はもう済んでいるのに、数字はいちばん悪い。会社は、答えを持ったまま底を通り過ぎたことになります。

それでも、一度決めた向きは変わりませんでした。

2003年5月には、初めての直営店を福岡・太宰府に開きます。2004年からは、量販店やアウトドア店の中に「スノーピークストア」という売り場を次々に設けました。お客様が全製品を手に取れる場所を、自分たちで増やしていったのです。2005年3月には会員の仕組み「スノーピーククラブ」も設けました。

海の外へも出ていきます。1996年12月に米国オレゴン州に子会社を設け、1999年には同じオレゴン州グレシャムのガレージから、米国での卸売を始めました。国内で新しい売り方に切り替える準備をしていた、まさにその年です。2001年には欧州への輸出と、韓国などアジアでの販売を本格的に始めています。

国内では売り先を絞り、海外では売り先を広げる。向きの違う二つの動きが、同じ時期に重なっていました。

2009年には、釣り具の事業を手放しています。太さんが入社したころ、売上の5億円のうち4億円を占めていた事業です。入社のころの会社を支えていた事業を、自ら手放したことになります。

2011年4月、本社と工場を、キャンプ場をあわせ持つ新しい本社へ移しました。広さはおよそ5万坪。社員が働くすぐ横で、お客様がテントを張れる場所です。太さん自身も、毎年50〜60泊をキャンプで過ごすと語っています。2014年12月には東京証券取引所マザーズに上場し、翌2015年には東証一部に移っています。

スノーピークウェイは、その後も毎年続けられました。小さな集まりも含めると、キャンプの催しは年100回を超えるといいます。太さんは、こう語っています。

「やっぱり危機に直面した時に初めて、真理が見えてくるのでしょうね」

声を聞く仕組みは、その後も続きました。お客様への定点観測のようなアンケートを取り続け、集めた声をもとに改良しているので、時に経営判断を誤っても、軌道修正はおそらく世界一早いと思う、と太さんは話しています。2020年の時点で、数%の熱心なお客様が、会員の売上のおよそ半分を占めていたといいます。

2020年12月期の連結売上は約168億円。第1回スノーピークウェイの翌年、1999年の14.5億円と比べると、10倍を超えています。

その後の道は、まっすぐではありません。2023年12月期の売上は257億円で、前の期より16.4%減りました。2024年には、経営陣による買収で上場をやめています。会社の形は、いまも動き続けています。

社史の目で見ると

売る場所を減らして、なぜ売上が戻ったのか。

答えは、「高い」と「買えない」が、同じ一本の流れから生まれていたことにあります。問屋を抜けば、値段は下がる。店を絞れば、全製品を置ける。スノーピークは、二つの不満を一つの決断で解きました。そしてその決断の芯には、真のお客様はユーザーだという言い切りがありました。

立ち直った理由は、新しい売り方そのものより、それを選んだ順番にあったと言えます。先に客の声を聞き、次に会社の都合を組み直した。この話を社史に残すなら、次の三つの場面は外せないと考えます。

一つめは、売上が落ちる中で、営業の社員が「存在理由が分かりません」と言った場面です。会社が迷っていた事実は、立ち直った理由と同じくらい、のちの社員にとって大事な記録になります。

二つめは、日曜の帰り道と月曜の朝礼です。客の声を聞いた週末のうちに腹をくくり、週の初めに社員へ伝えた。判断がいつ、どこで、誰の言葉から生まれたのかが、ここに詰まっています。社史に年月だけを書けば「2000年、流通改革」の一行で終わってしまう出来事です。その一行の手前に、焚き火の前の声と、帰り道の決心があったことは、記録しておかなければ消えてしまいます。

三つめは、決めてから変わるまでの1年です。1999年の契約は守り、新しい売り方は2000年から始めました。華やかな話ではありません。けれど、決断を実際の形にするまでの時間と手順こそ、次に同じ場面に立つ人がいちばん知りたいことではないでしょうか。

冒頭で見たとおり、この会社は、創業者が登山用品に不満を持ったところから始まりました。使う人の不満が、作る理由になった会社です。そして1998年、今度はお客様の不満が、売り方を変える理由になりました。作り手が使い手の側に立つ。スノーピークは、創業の形にもう一度戻ったのだと思います。

いちばんの味方に、いちばん耳の痛いことを言ってもらう。会社の形は、そこから変わりました。

あなたの会社の「そのとき」は、いつでしたか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。

※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、株式会社スノーピークとKATARUの間に関係はありません。

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月16日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)