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そのとき、会社が動いた。

1日6万食が、2万食に

大田区の弁当屋・玉子屋が守ったもの

玉子屋の転機を、公開情報からたどります。

2020年4月、東京・大田区の弁当工場で、注文の数が見たことのない落ち方をしました。

前の年、この工場は1日平均およそ6万2,000食の弁当をつくり、オフィスに届けていました。それが、緊急事態宣言が出たあと、およそ2万食になります。取引先の大企業が、次々と在宅勤務に切り替えたからです。売上はおよそ3分の1に落ち、月に3億円ほどの赤字がおよそ3か月続きました。

工場の名は玉子屋。400円台の日替わり弁当を1種類だけつくり、東京と神奈川の会社に届けてきた弁当屋です。1日最大7万食をつくりながら、売れ残りの割合を0.1%未満に抑える仕組みで知られ、アメリカのスタンフォード大学の経営大学院でも教材に取り上げられてきたといいます。

皮肉なことに、明日の注文を読む力で群を抜いていた会社が、来月さえ読めない日々に放り込まれたのです。社長の菅原勇一郎は、それまでの自分をこう振り返っています。

「正直、負ける気がしなかった」

注文が3分の1になったとき、この会社は何を守り、何を変えたのか。答えをたどると、弁当の数を読む仕組みよりも前に、この会社が長く大事にしてきたものに行き着きます。

玉子屋の歩みの年表(1975〜2025年)

卵の名を持つ弁当屋

社名の「玉子屋」は、創業家の祖父が付けたものです。祖父は戦後、茨城の水戸で養鶏場を営んでいました。のちに東京へ出て、大田区で肉屋と魚屋を始めます。

魚屋を継いだのが、勇一郎の父で、のちに会長となる菅原勇継です。勇継はトンカツの定食屋も始めました。近くの町工場から配達を頼まれるようになり、妻(勇一郎の母)の「弁当屋になったほうがいいのでは」という一言もあって、弁当の仕事に移っていきます。会社として玉子屋を設立したのは、1975年のことです。

町工場の昼ごはんから始まった弁当屋は、やがて証券会社などのオフィスにも届けるようになりました。

息子の勇一郎は、初めから継ぐつもりはありませんでした。少年野球でエラーをすると、「弁当屋とってこい」とからかわれたこともあったといいます。憧れていたのは、「一部上場企業に勤めているお父さん」でした。富士銀行(いまのみずほ銀行)に入り、流通マーケティングの会社を経て、家業に向き合うことになります。

「人件費増大、原価率上昇」

1997年、勇一郎は27歳で玉子屋に戻りました。常務取締役としての入社です。当時の売上はおよそ12億円、1日に2万食あまりの弁当をつくっていました。

戻るにあたって、勇一郎は父に決算書を見せてもらっています。銀行員の目で数字を読んだとき、初めて気づいたことがありました。

「ああ、ウチって三方よしの会社なんだな」

お客様、社員、会社の三方にとってよい会社だ、という意味です。弁当の原価率を50%より高く保つことは、創業者の勇継が決めた「玉子屋の心意気」でした。

勇一郎は、この考えをさらに押し進めます。当時の常識は、人件費と材料費を削って利益を出すことでした。勇一郎が目指したのは、その逆です。

「僕のやろうとしたことは、人件費増大、原価率上昇。それで健全経営をしようとしたんですね」

父が決めた原価率50%超を守ったまま、「日本一おいしい弁当」と、「日本一感じのいい配送員」。この2つを目標に掲げ、配送員の育成に力を入れます。勇一郎はかつて客として玉子屋の弁当を食べ、届けに来た人の感じのよさで弁当の印象が大きく変わることを知っていました。

なぜ、原価をかけても利益が出るのか。勇一郎は、メニューが1種類しかないことを理由に挙げています。

「1種類しかないからこそ、原価率50%オーバーでも儲けが出せる」

1種類なら、材料をまとめて仕入れられます。工場の流れも単純になります。つまり、選べないことが、そのまま安さとおいしさを支えているのです。

「あなたを信用していいかわからない」

もっとも、銀行から来た跡継ぎが、すぐに受け入れられたわけではありません。

入社したころの社員はおよそ50人。父の勇継は、勇一郎を社長だと思って言うことを聞くように、と社員に伝えたといいます。それでも、社員の本音は「あなたを信用していいかわからない」というものだった、と勇一郎は語っています。

玉子屋で働く若者について、勇一郎は「学歴はあまりない。でも元気はある」と語っています。

勇一郎がしたのは、その人たちと話すことでした。

「短所ばかり指摘して、その人を育成しようとすると、どうしても長所が縮んじゃうんですよね」

短所を責めるより、長所を伸ばす。仕事のあとの飲み会では、仕事の話は3分の1、残りの3分の2はお互いの暮らしの話をする。そんな決まりもつくりました。勇一郎は、社風が変わるまでに「3年ぐらいかかったと思いますね」と言います。

改革から2年ほどたったころ、社員のほうからこう言ってきました。

「今までは言われるままついてきたが、これからは自分も意見を言いながらやっていきます、よろしくお願いします」

勇一郎は、父との違いを「親父はこういうやり方できたが、僕はこうやる」と言い表しています。父の考えは受け継ぎ、やり方は自分で変える。ここで大事なのは、のちに「玉子屋の仕組み」と呼ばれるものの多くが、この社員たちの手の中で育っていったことです。

勇一郎が社長になったのは2004年。注文は伸び続け、2007年には1日6万食を超えました。

7万食を、ほとんど余らせない

1日に何万食もの弁当を、1種類だけつくる。その日の朝に注文を受け、昼までに届ける。ここで問題になるのが、余りです。多くつくれば捨てることになり、少なければ届けられません。

玉子屋の答えは、前の日に数を読むことでした。勇一郎はこう語っています。

「まず、一番大事なのは、その日に出る予想の数なんですね」

2016年、勇一郎はその仕組みを数字で説明しています。たとえば翌日の予想が6万食なら、材料は少し控えめに、5万8,000食分を仕入れる。朝の締め切りで注文が6万1,000食になれば、足りない3,000食分の材料は15分ほどで届き、追加でつくる。盛り付けは、多いときで1分間に360個です。

その結果、その日の余りは60食以下。1年をならした売れ残りの割合は、0.1%未満でした。

ここでも1種類であることが効いています。読むのは「何が」ではなく「いくつ」だけ。仕入れも盛り付けの段取りも、その一つの数から逆算できます。

予想が外れれば、この数字は守れません。勇一郎は「これがかけ離れていたら、まず0.1%未満にはできないんですね、ロスを」と言います。

そして、この仕組みは、誰かが一度に設計したものではありませんでした。

「今からつくれと言われてもできないくらい、結果的に徐々に徐々にでき上がっていったというようなシステムだと思います」

弁当箱は、使い捨てではなく、回収して洗い、また使う容器です。配達は自社の配送チームが20ほどの班に分かれて受け持ちます。コロナ前には1日最大7万食、グループの年商は90億円ほどになっていました。注文の数を読む力と、届ける人の力が、この会社の背骨になっていきました。

負ける気がしなかった会社

2019年、玉子屋がつくる弁当は1日平均およそ6万2,000食。勇一郎は当時を、「どこにも負けないお弁当を作っている自信はありましたし、この先もずっと右肩上がりの成長を続けられると考えていました」と語っています。

その自信を崩したのは、ライバルの弁当屋ではありませんでした。

2020年4月、緊急事態宣言が出ます。玉子屋の主なお客様は、オフィスで働く人たちです。会社が在宅勤務に切り替えると、昼の弁当を食べる人そのものがいなくなりました。注文は1日およそ2万食まで落ち、月に3億円ほどの赤字がおよそ3か月続きます。夏になっても、1日3万食ほどまでしか戻りませんでした。

注文が減ったとき、すぐに思いつく手は削ることです。仕入れを絞り、人の手を減らせば、その場の赤字は小さくなる。けれども、それは1997年から積み上げてきた「人件費増大、原価率上昇」と正反対の道でした。

明日の注文を、6万食のうち数十食の誤差で読む仕組み。その仕組みは、人がオフィスに来ることを前提にしていました。前提そのものが崩れたとき、読む力だけでは会社を支えられなかったのです。

勇一郎は、このときのことをこう語っています。

「このまま勝ち続けられるとは限らないと、身をもって体験したのです」

同じ年の8月28日には、勇一郎が「飲食業では絶対にあってはならないこと」と語る重大な事故も起こしてしまいます。春の注文減に続く、二つ目の打撃でした。

2020年の赤字は、およそ10億円にのぼります。年に2回の賞与も、どちらも払えませんでした。

社員の月給は、変えない

このとき、勇一郎が下した判断があります。

自分を含む4人の役員の報酬を、6割減らす。一方で、社員の月々の給料は変えない。

2021年も赤字は続き、賞与は例年の半分しか出せませんでした。それでも、月給には手を付けていません。

なぜ、苦しいときに社員の給料を守ったのか。書き手の見方では、これは1997年に勇一郎が決算書の中に見つけた「三方よし」の延長にあります。原価率を上げ、人件費を上げてでも、お客様と社員に返す。父の代から続くその考えを、いちばん苦しい年にも曲げなかったのです。

この判断ができた背景には、会社の持ち方もあります。玉子屋は、株式を上場していません。勇一郎はこれまで、上場は「しない」と言い続けてきました。上場しないほうが、お客様によりよい弁当を出し、社員に多く払い、会社を健全に保てる、という考えからです。社長が株主も兼ねているので、「顧客第一主義」を貫ける。勇一郎は、社員15人に満たない会社が土地ごとに独自の品をつくるイタリアのあり方を、中小企業のひとつの理想に挙げています。

裏を返せば、そういう会社だったからこそ、赤字の年に役員の報酬を削り、社員の月給を守るという選び方ができたともいえます。もっとも勇一郎は、自分より優れた人が経営してお客様と社員がもっと幸せになれるなら、M&Aの道もゼロではない、とも書いています。

勇一郎は、もうひとつのことも信じていたと語っています。

「コロナ禍はいつか終息する。そうすれば、会社一丸になって頑張れば復活できる。そう信じていました」

オフィスの外へ

待つだけでは、注文は戻りません。会社は、オフィスの外に弁当を届ける先を探し始めます。

まず、工場の多い地域への配達を増やしました。工場の現場では、在宅勤務はできません。思えば、玉子屋の弁当は、もともと大田区の町工場の昼ごはんから始まったものです。オフィス街の会社になる前の、いちばん最初のお客様に近い場所でした。

私立の中学や高校にも届けるようになり、2023年初めの時点で14校になっていました。ミニストップと組んで、オフィスビルの中に無人のコンビニも開いています。

2022年には、材料などの値上がりを受けて、弁当の値段を470円から500円に上げました。その年の10月、1日の食数はおよそ3万5,000食まで戻り、11月には赤字が止まります。

学校向けは、その後さらに広がりました。2025年度からは、小学生向けの日替わり弁当を本格的に始めています。共働きの家庭やひとり親の家庭が増えていることが背景にあります。

オフィスの弁当とは、求められるものも違います。小学生向けは、おかずが平均6品で、栄養士と惣菜管理士が監修します。アレルギーの表示は28品目。注文とキャンセルは前の営業日の正午までで、利用には学校の承諾が要ります。子どもの数は、オフィスの人数のようには急に消えません。書き手の見方では、注文を前日までに確かめられるこの形は、数を読んで余らせない玉子屋の得意なやり方とも、よくかみ合っています。

いま、玉子屋は毎日およそ4万5,000食を、企業や学校、病院などに届けています。大人向けの弁当は、相変わらず1種類。受けた注文の数とつくった数の差は、いまも0.1%未満を保っています。

玉子屋の1日あたりの食数の動き(1997〜2025年)

そのとき、会社が動いた

玉子屋の転機は、2020年4月にあります。

ただ、書き手の見方では、この会社が本当に試されたのは、注文が落ちた日そのものではありません。落ちたあとに、何を守るかを決めたときです。「負ける気がしなかった」会社は、負けることもあると知ったうえで、もう一度立ち上がりました。

1日7万食をほとんど余らせない仕組みは、たしかに見事です。けれども、勇一郎自身が言うように、それは「徐々に徐々にでき上がっていった」ものでした。だとすれば、仕組みの本当の作り手は、毎日数を読み、盛り付け、届けてきた社員たちです。会社が苦しいときに社員の月給を守ったことは、仕組みそのものを守ったことでもあったのです。

もうひとつ、目を引くことがあります。オフィスの外に新しいお客様を探したとき、行き先のひとつは工場でした。弁当屋の始まりも、町工場からの配達の頼みでした。会社が大きく揺れたとき、足がかりになったのは、自分たちの始まりの場所に近いところだったのです。

ここに、会社の歴史を残すことの意味があるように思います。

数を読む仕組みや売り方は、時代が変われば通じなくなることがあります。2020年の玉子屋がそうでした。そのとき頼りになるのは、仕組みの奥にある考え方です。玉子屋にとっては、父の代からの「お客様と社員に還元しろ」という言葉でした。そうした言葉は、決算書にも業務の手順書にも書かれていません。誰かが語り、書き残しておかなければ、代が替わるうちに消えてしまいます。

社史に残すなら、次の3つの場面です。1997年、銀行員だった息子が決算書を読み、「三方よし」に気づいた日。2020年4月、6万食の注文が2万食になった日。そして、その年に社員の月給を変えないと決めた日です。

あなたの会社が、いちばん苦しい年にも曲げなかったことは何ですか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。

※この記事は公開情報をもとにKATARUが独自にまとめたもので、株式会社玉子屋とKATARUの間に関係はありません。

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公開日:2026年10月22日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)