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そのとき、会社が動いた。

社員食堂の献立が本になった

タニタが健康を「つくる」まで

タニタの転機を、公開情報からたどります。

2012年1月11日、東京・丸の内のビルに、一軒の定食屋が開きます。それから6日目の朝も、店の前には8時ごろから行列ができていました。目当ては昼の定食の整理券です。配り始めは8時30分。日替わりが800円、週替わりが900円の店で、整理券は11時を待たずに配り終わったと報じられています。

店の名は「丸の内タニタ食堂」。看板にあるのは、体重計の会社の名前です。

不思議なのは、この行列の出どころです。2年前まで、この献立を知っていたのは、東京・板橋にある本社の社員だけでした。本社の約200人のうち、食堂を使っていたのは50〜60人ほど。その社員食堂の献立が本になり、本が売れ、売れた本から店が生まれたのです。

しかも、会社として本を狙った人はいませんでした。のちに社長の谷田千里氏は、レシピ本について「あの本は偶発的要素が重なって出版されたんです」と語っています。

狙わずに生まれたヒットは、話題のまま終わってもおかしくありません。ところがタニタは、ここで会社の形を変えました。量る機械をつくる会社が、食べるものまで手がける会社になったのです。偶然を、なぜ会社の形にまで変えられたのか。答えの手がかりは、食堂ができるずっと前の、体脂肪計の開発にあります。

第1章 「量る」で生き延びてきた会社

タニタの始まりは、体重計ではありません。

1923年、会社は金属雑貨の製造と卸から歩みを始めます。戦後すぐに出した金属製のシガレットケースは、大ヒットになります。その後もライターやトースターなど、ほかの会社の名前で売られる製品をつくる仕事(OEM)を手がけてきました。

1959年、家庭用の体重計「ヘルスメーター」の初号機を出します。ここから、会社の顔が決まっていきます。1978年には国内で初めて数字が画面に出るデジタル式のヘルスメーターを、1992年には乗るだけで体の組成がわかる機器を発売。そして1994年、体重計に体脂肪計を組み合わせた、世界初の家庭用の製品にたどり着きます。

体重だけでなく、体の中身まで測る。ここから、タニタの「はかる」は一段深くなります。

そこへ至る道も、平坦ではありません。1987年に社長となった2代目の谷田大輔氏の代に、赤字だった会社は、ヘルスメーターの売上で世界一の企業に育ったと、大輔氏の著書の紹介にあります。シガレットケースからライター、トースター、そして体重計へ。主力の製品を何度も替えてきた会社だということは、覚えておいてよさそうです。

もうひとつ押さえておきたいのは、体脂肪率という数字の性質です。体重計の針は、乗れば誰でも読めます。ところが体脂肪率が高いと分かっても、それだけでは何も変わりません。どう食べ、どう動けば数字が下がるのか。測る機械の先には、必ずその問いが待っています。

のちに谷田千里氏は、社員食堂の献立づくりについて「もともとは体脂肪計開発のプロジェクトの一環として、食事指導の開発を進めた」と語っています。考えた食事を、せっかくだからと社員に試したのが始まりだった、とも話しています。つまり、タニタの中では早くから、「量る」と「食べる」が同じ机の上にあったわけです。

その延長に、1999年の社員食堂があります。板橋の本社に開いた食堂の目的は、社員の健康を保ち、高めること。1食あたりのカロリーと塩分を抑えた献立です。

ただし、はじめから評判がよかったわけではありません。カロリーと塩分を優先した最初の献立は社員に不評でした。まずい、病人食のようだ、という声が出て、食べ残しも続いたと伝えられています。健康によくても、残されては意味がない。代々の栄養士が、味と数字の両立に向けて改良を重ねていきます。

やがて定食の形が固まります。主菜に副菜が2品、汁物とご飯。1食500キロカロリー前後、塩分3グラム前後、野菜は150〜250グラム、ご飯は100グラム。体重計の会社らしい、数字で決めた食事です。

この食堂は、外に向けて何かを売るための場所ではありませんでした。社内の福利厚生のひとつとして、10年近く、静かに続いていきます。

その間、会社の稼ぎ頭は体脂肪計でした。2001年に入社した創業家の谷田千里氏は、そのころの社内を「体脂肪計の成功体験に甘える雰囲気が社内にみなぎっていましたね」と振り返っています。その谷田氏が、2008年5月に3代目の社長に就きます。体脂肪計や体組成計がうまくいったからといって、その成功に固執していてはだめだ、とも話しています。

うまくいっている事業を、どう変えるか。新しい社長の前には、そんな問いがありました。

そして社長が変わった翌年、その次の一手は、思いがけず外からやってきます。

第2章 テレビの1コーナーから、本が生まれる

2009年3月、NHKのコント番組『サラリーマンNEO』に、タニタの社員食堂が登場します。世界の会社の食堂を紹介するコーナーでした。

きっかけは、さらに小さな出来事です。以前にタニタが受けたオンラインの情報誌の取材記事を、番組の担当者が目にしたのだといいます。会社が売り込んだわけではありません。記事を読んだ人が、番組で取り上げた。それだけのことでした。

谷田氏は後年、この放送をタニタの「ターニングポイント」だったと位置づけています。

放送を見た一人に、出版社・大和書房の編集者がいました。社員食堂の献立を、本にしませんか。持ちかけたのは出版社の側です。

2010年1月20日、『体脂肪計タニタの社員食堂』が発売されます。B5判で96ページ、本体価格は1,143円。収めたのは、社員食堂の献立のうち、特に人気の高い31の定食でした。

載っているのは、料理店の看板メニューではありません。毎日の昼に、社員が食べてきた定食です。1食500キロカロリー前後、塩分3グラム前後という食堂の決まりが、そのまま家庭の台所へ持ち出されたことになります。

谷田氏は、このとき自分としての戦略的な意図はなかったと、はっきり話しています。会社が狙って仕掛けた本ではない。この点は、あとの展開を考えるうえで覚えておきたいところです。

ここで大事なのは、この本の中身が、新しく考えたものではなかったことです。10年かけて社員に食べてもらい、残され、直してきた献立。その積み重ねが、そのまま1冊になりました。

本は売れます。同じ年の11月には続編が出ます。前作から編集に関わってきた編集者も、予想以上の反響に驚いたと話しています。2011年12月の時点で、シリーズの部数は425万部に届きました。その後も伸び続け、シリーズは542万部に達します。社員食堂の献立が、それだけの数の家庭の台所に入っていったことになります。

会社に起きた変化は、電話で分かります。

本が売れ、さまざまなメディアに取り上げられると、「タニタの社員食堂で食べてみたい」という電話が毎日かかってくるようになりました。けれども食堂は社員のためのもので、一般の人は入れません。谷田氏は当時を振り返り、断るしかなく「平謝りでお断わりする日々でしたね」と語っています。

食べたい人が、毎日電話をかけてくる。それなのに、食べてもらう場所がない。ここが、ひとつの分かれ道だったと見ることができます。本のヒットをありがたい話題として受け取り、本業の体脂肪計に戻るのか。それとも、食べたいという声に応えて、店を出すのか。

社長は、後者を選びます。

本を出すのと、店を出すのとでは、話の大きさがまるで違います。食材を仕入れ、人を雇い、毎日決まった時刻に決まった数の定食を出す。体重計をつくる工場とは、まるで違う商売に入ることになります。

第3章 ハンドルを、目いっぱい切る

2011年11月、タニタは外食チェーンの「きちり」との業務提携を発表します。組んだ相手は、店を回すことを本業にする会社でした。

体重計の会社が、飲食店を開く。社内にも外にも反対があったといいます。のちにテレビ番組で、谷田氏の金言として紹介された言葉があります。「新しいことにハンドル切るなら目いっぱい切れ!」

狙いは、話題づくりにとどまりませんでした。2011年12月の時点で、谷田氏は売上120億円の会社を、向こう7年ほどで300億円に広げる計画を語っています。そして、そのけん引役として期待したのが、レストランの事業でした。本1冊のヒットを、会社の柱のひとつに育てようとしていたのです。

そして2012年1月11日。冒頭の行列の日がやってきます。

本社の社員のうち、50〜60人が食べていた食堂。その献立が、丸の内のビルの前に朝から人を並ばせました。整理券は11時前に尽きます。毎日の電話に「平謝り」で応えていた会社が、ようやく誰でも座れる席を用意した日でもありました。

ここから、タニタの「食べる」は外へ広がっていきます。

同じ年の6月15日には、2号店が病院の中にできます。東京・五反田のNTT東日本関東病院です。41席の店でした。献立について谷田氏は、月単位・週単位で栄養のバランスを考えているので、毎日食べ続けることで健康の維持にも役立つと話しています。1食の話から、毎日の話へ。体重計に毎日乗るのと同じように、食事も積み重ねで見る。そんな考え方が読み取れます。

広がり方は、店だけではありません。2013年5月25日、レシピ本と同じ題の映画が公開されます。同じ月の28日には、森永乳業がタニタ監修のプリンを発売。2015年4月には、持ち帰り弁当の「ほっともっと」で、タニタ監修の弁当が始まります。

社員食堂の献立は、本になり、店になり、プリンや弁当にまで形を変えていったのです。

第4章 社員の数字が、会社の看板になる

一方で、食堂の原点である社員の側にも、数字が残っています。

2009年1月、タニタは本社の全社員、およそ250人を対象に、健康づくりの取り組みを始めていました。自社の測る機器と社員食堂を組み合わせた、健康づくりの取り組みです。

社員1人あたりの医療費は、2008年の11万6,996円から、2010年には10万6,180円に下がりました。およそ9%の減少です。同じ時期、タニタが加入する健康保険組合の全体では、12万7,604円から13万8,721円へ、9%増えています。片方は1割近く下がり、片方は1割近く上がる。2本の線は、逆の向きに離れていきました。

社員1人あたりの医療費の動き(2008年と2010年)

この取り組みは、平成24年版の厚生労働白書で、メタボリックシンドロームの解消に成功した事例として紹介されます。2013年には「タニタの健康プログラム」として、厚生労働省の「健康寿命をのばそう!アワード」で厚生労働大臣賞の最優秀賞を受けました。

本と店で知られるようになった「タニタの食事」は、こうして、社員の健康という数字の裏づけを得ます。話題になった献立というだけでなく、続けて食べた人の体に何が起きたかを示せる。この裏づけが、のちに自治体と組むときの足場になっていきます。

社員のための食堂が、会社の外で自治体と組む仕事にもつながっていきます。東京都板橋区とは2008年から特定保健指導(生活習慣病の予防のための保健指導)の事業で連携し、静岡県三島市、埼玉県鶴ヶ島市、新潟県長岡市でも、タニタの健康プログラムが動いていました。

測る機械を売る会社が、測ったあとにどう暮らすかまで引き受ける。2015年6月、谷田氏が出演したテレビ東京の『カンブリア宮殿』の回には、「"はかる"と"食べる"でニッポンを健康に!」という題がつきました。番組の放送時点で、会社の連結売上は約146億円と紹介されています。

第5章 払ったもの、続けたもの

もっとも、すべてが計画どおりに進んだわけではありません。

谷田氏は、タニタ食堂の献立について、健康と味を両立させるために原価が非常に高くなっていると明かしています。安く大量に出せば、社員食堂の献立ではなくなる。店を増やすほど、その重さがのしかかる仕組みです。

2016年1月、タニタは「2018年度中に全都道府県に出店」という目標を掲げます。この時点で、タニタが自ら営む店は1つ。ほかの20は、加盟店や業務委託の店、メニューの提供先でした。自分の店を広げるより、組む相手に献立を渡す形に重心が移っていたことが分かります。一方で、最初の提携相手だった「きちり」や、ロイヤルコントラクトサービスとの提携は、それぞれ解消していました。

店の数は、一直線には増えませんでした。2019年3月1日に開いたさいたま市の店は、全国で8店舗目と発表されています。そして始まりの店、丸の内タニタ食堂も、2025年3月、入っていたビルの建て替えに伴って閉店しました。

それでも、タニタは食堂をやめていません。

2025年10月23日、東京・豊島区の「としまエコミューゼタウン」の2階に、53席の「タニタ食堂本店」が開きます。前の日には、タニタと豊島区が連携協定を結びました。

丸の内の行列から13年。店の場所は、オフィス街から、区と一緒に住民の健康を考える場所へと移りました。

ここで、谷田氏が2020年に語った言葉をもうひとつ紹介します。会社の強みを生かして、「健康を“つくる”企業」へ発展させていきたい。体重計の会社が、自らの行き先をそう言い表すようになったのです。

「量る」から「食べる」へ。タニタの年表(1959年〜2025年)

終章 社史の目で見ると

偶然を、なぜ会社の形にまで変えられたのか。冒頭の問いに戻ります。

答えは、二つの重なりにあると見ています。

ひとつは、食堂がもともと「量る」の延長にあったことです。体脂肪計の開発の一環として食事を考え、数字で決めた献立を10年かけて磨いてきた。テレビや本は偶然でも、その中身は偶然ではありませんでした。だからこそ、本から店へ、店から自治体との仕事へと、筋の通った形で広げられたのだと思います。

もうひとつは、偶然が届いたときに、ハンドルを目いっぱい切った人がいたことです。断りの電話が続くなかで、反対があっても店を出すと決めた。さらに、レストランの事業を売上を伸ばすけん引役にすると、言葉にして示した。偶然のヒットを、会社の計画の中に置き直したのです。

社史の目で見ると、残しておきたい場面がいくつかあります。

まず、最初の献立が不評で、食べ残されていた時期です。成功した献立だけを載せれば、本はきれいにまとまります。けれども、改良を重ねた栄養士たちの試行錯誤こそが、のちに500万部を超える本の中身になりました。

次に、断りの電話の日々です。食べたい人がいるのに、出す場所がない。結果だけを年表に書けば「2012年1月 開業」の一行です。その一行の前にあった毎日の電話は、書き残さなければ消えていきます。

そして、反対の中で道を決めた日です。新しいことに、ハンドルを目いっぱい切る。そう決めた理由と、そのとき社内にあった声の両方を残しておけば、次に会社が道を選ぶとき、何よりの手がかりになるはずです。

本が出た日も、店が開いた日も、たしかに会社が動いた日です。けれども、その動きを支えていたのは、10年前に社員の昼ごはんを測り始めた日でした。

あなたの会社の「そのとき」は、いつでしたか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

連載「そのとき、会社が動いた。」は、公開情報で読む、あの会社の社史です。本記事は公開情報をもとに独自にまとめたもので、株式会社タニタとKATARUとの間に関係はありません。

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月15日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)