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そのとき、会社が動いた。

眠っていたネットの店

ヤッホーブルーイングが立ち直るまで

ヤッホーブルーイングの転機を、公開情報からたどります。

長野県の醸造所で、缶ビールのプルタブが次々に開けられていきます。中身が向かう先は、グラスではありません。排水溝です。売れ残ったビールは、醸造所の中で廃棄すれば酒税が戻ってくる。だから社員が毎日、自分の手で流していました。腱鞘炎になるくらいだった、と社長の井手直行氏は振り返っています。「よなよなエール」をつくるヤッホーブルーイングが、まだ赤字から抜け出せずにいたころの光景です。

井手氏はこの時期について、「人生に幸せを!」と掲げる会社の自分たちが、まったく幸せではなかったと語っています。社員は次々に辞め、営業先では門前払いが続きました。赤字は、創業から8年続きます。

けれども、この会社を立て直すことになる道具は、そのときすでに社内にありました。創業期に開いた、インターネットの店です。担当者が去ったあと、何年も手をかけられずに眠っていた店。救いの道がすぐそばにあったのに、なぜ長く動かなかったのか。そして何が、この会社を動かしたのか。

第1章 大きなタンクと缶

始まりは、1杯のビールでした。軽井沢の温泉旅館の4代目にあたる星野佳路氏は、留学先のアメリカで、何気なく注文したエールビールに言葉を失います。アメリカでは、小さな醸造所が次々に生まれていました。日本でも同じことができないか。星野氏はそう考えたと、同社は紹介しています。

その「できないか」が現実になったのは、法律が変わってからです。1994年、酒税法の改正で、ビールをつくるのに必要な年間の最低製造量が2,000キロリットルから60キロリットルに引き下げられました。33分の1です。大手でなければつくれなかったビールが、町の醸造所でもつくれるようになる。各地に地ビールが生まれ、ブームが起きます。

ヤッホーブルーイングが設立されたのは1996年。ただ、この会社はほかの地ビールと少し違う道を選んでいました。軽井沢の土産物で終わらせず、最初から全国に出荷するつもりで、大きな醸造タンクと缶詰めの設備に投資したのです。瓶ではなく缶。観光地の売店ではなく、日本中の食卓。設備の大きさが、そのまま狙いの大きさでした。

1997年7月7日、よなよなエールが発売されます。手本にしたのは、星野氏がアメリカで出会ったペールエールでした。

このとき、創業メンバーの一人として営業を任されたのが井手直行氏です。高専で電気工学を学び、大手のオーディオメーカーでエンジニアとして働いたあと、環境アセスメントの会社を経て、バイクで東北から北海道まで旅に出た。その後、軽井沢の広告会社に入り、星野氏に誘われて加わりました。営業の技術はまったくなかった、と本人は振り返っています。

売れ行きは、上々どころではありません。注文に出荷が追いつかず、100ケースの注文に30ケースほどしか応えられない。井手氏は当時の気持ちを「地ビールって凄いな、こんなに売れるんだ」と振り返っています。

同じころ、この会社はもう一つ、小さな手を打っています。開設されて間もない楽天市場への出店です。出店した店には、創業者の三木谷浩史氏の名で「一緒にインターネットで世界を目指しましょう」と結ばれた手紙が届きました。日付は1997年6月だったと紹介されています。ただし楽天側の記事では、出店は1998年からとされています。いずれにしても、楽天市場が始まって間もないころの、早い一歩です。

第2章 前年比80%

ブームは長く続きませんでした。地ビール業界全体の売上は、1999年ごろに峠を越えたとされています。創業から数年で、ヤッホーブルーイングの注文は目に見えて減っていきます。

ある年の売上は、前年比で80%。2割の目減りです。井手氏が営業に回っても、もう地ビールを飲みたいという人はいない、帰ってくれと言われる。全国を見据えて入れた大きなタンクは、売れないビールをつくり続けることになりました。

数字の悪化は、人の心を先に削ります。社員どうしで責任を押し付け合い、会社の行く末に希望をなくした人が、一人、また一人と辞めていく。楽天市場の店を受け持っていた担当者も去り、店はそのまま止まりました。気づけば、社内に残っていたのは半分ほどでした。

冒頭の排水溝の光景は、この時期のものです。つくったビールを自分たちの手で捨てる。捨てれば、納めた酒税が戻ってくる。売れない在庫を抱え続けるより、そのほうが損が小さい。1994年の酒税法改正で生まれた会社が、今度は酒税の仕組みに背中を押されて、自分のビールを流していました。

井手氏は、親会社の社長でもある星野氏に電話をかけます。

「社長、こんなにうまくいかず、皆が辞めていく事業なんて続ける意味、あるんでしょうか……?」

星野氏の返事は、とことんやってダメだったら会社を畳んで釣りでもして暮らそう、というものでした。やめる、とは言わない。井手氏はその言葉から、この人はまだ諦めていない、本気なのだと受け取ったと明かしています。

続けることは決まりました。けれど、何を変えればいいのかは、まだ誰にも分かっていません。

第3章 ロッカーの手紙

答えのきっかけは、辞めていった社員のロッカーから出てきます。片づけていると、古びた手紙が見つかった。創業期に届いた、三木谷氏からのあの手紙です。この手紙を見つけたことが、ネット通販に最後の活路を定めるきっかけになったと伝えられています。

楽天市場の店そのものは、なくなってはいませんでした。ただ、担当者が去ってから、ほとんど誰も手をかけていない。開店休業の状態でした。

2004年、井手氏はこの店を一人で受け持つことになります。37歳。営業の経験はあっても、ネットの商売は素人でした。井手氏は六本木ヒルズにあった楽天のオフィスに毎週通い、出店者向けの講座を受け始めます。受講料は数十万円。赤字の会社にとって、小さな額ではありません。「これでダメなら本当にもう打つ手がない!」。井手氏は当時の心境をそう語っています。

担当になって、井手氏は一つのことを知ります。

「全然売れなくなったと思っていた〈よなよなエール〉が、実はネットではそこそこ売れていたんです」

ここで大事なのは、誰も手入れをしていなかったという点です。宣伝もせず、店の作り込みもしていない。それでも、わざわざ探して買う人がいた。卸先の棚からは消えかけていたビールに、ネットの向こうでは客がついていたのです。

裏を返せば、担当者が去り、手が回らないままでいたあいだも、ネットの向こうの客は離れていなかったということです。眠っていた店は、問屋の注文からは見えない客の存在を、数字で知らせていました。

第4章 3,000円のビール

客がいると分かれば、次は客に届く言葉を考えることになります。

2005年、井手氏は社内のタンクで2年ほど眠っていた「英国古酒」に目を付けます。750ミリリットルの瓶で、1本3,000円。地ビールとしても高い値段です。これを「奇跡のビール」とうたって、メールマガジンで知らせました。結果は、1日もたたずに完売。200本を限って追加で売ったところ、それもすぐに売り切れます。井手氏は、高いビールがこんなに早く売れることに驚いたと振り返っています。

同じ年の初め、井手氏は楽天の出店者が集まる新春のカンファレンスに初めて足を運びました。壇上では、成果を上げた店が表彰されています。帰ってから、井手氏は三つの目標を紙に書いて壁に貼りました。1年後に月の売上1,000万円の店になる。2年後に楽天の成功事例として紹介される。3年後に、あの壇上に登る。

2年後の2007年、ヤッホーブルーイングの店は、楽天市場で年間の優れた店に贈られる「ショップ・オブ・ザ・イヤー」に初めて選ばれます。その後10年続けて、この賞を受けます。井手氏は「目標を紙に書いて壁に貼っていたら、ほぼ全部実現しました」と話しています。

ネット限定で企画した父の日のキャンペーンでは、ひと月に1,000万円を売り上げたこともありました。壁に貼った1年目の目標と、ちょうど同じ額です。数年前まで問屋に頭を下げて回っていた会社が、画面の向こうの客に向けて、自分たちで売り方を考えるようになっていました。

ネットの店は、売り場であると同時に、客と直接話せる窓口でもありました。メールマガジンを書けば、読んだ人から返事が来る。問屋の向こう側にいて顔の見えなかった飲み手が、ここで一人ずつ見え始めたのです。

評判は、やがて逆向きにも伝わります。ネットで評判のいいビールがあるらしい。そう聞いた店が、よなよなエールを扱ってくれるようになっていきました。売り込みでは門前払いだった売り場への道を、ネットでの評判が開き直したのです。

第5章 仕事の話をしない朝礼

2008年、井手氏は星野氏から社長を引き継ぎます。ここで井手氏が会社の命運をかけたのは、商品でも販路でもありませんでした。チームづくりです。

当時の朝礼を、井手氏はこう描いています。「朝礼を実施しても、当時いた20人弱の社員みんなが『特にありません』『私も』と、なんの会話もなく終わってしまうことが多かったんです」。赤字の時代に人が去り、残った人も口を閉ざしていました。

井手氏が取り組んだのは、話し合いの仕方そのものを変えることでした。朝礼では仕事の話はしなくていい。まずは雑談で、互いを知る。社員どうしはニックネームで呼び合うようになります。井手氏自身の呼び名は「てんちょ」。楽天市場の店長だったころの呼び名が、そのまま社長の呼び名になっています。

2010年、この会社は初めて、ファンと直接会う催しを開きます。名前は「宴」。集まったのは40人ほどでした。ネットの向こうにいた客を、今度は醸造所の社員が自分の目で見る。メールマガジンの読者と、つくり手が同じ場所でビールを飲む催しです。

宴は年を追って大きくなります。2015年には北軽井沢のキャンプ場で「超宴」を開き、2017年には東京・神宮外苑で約4,000人を集めました。採算だけを見れば合いません。東京開催は数千万円の赤字だったと、同社のスタッフが明かしています。それでも続ける。売上の数字より先に、客との関係を置いているということでしょう。

社内の空気も変わりました。同社は2017年から10年続けて、働きがいのある会社のベストカンパニーに選ばれています。朝礼で誰も口を開かなかった会社が、働きがいで選ばれる会社になる。そのあいだにあったのは、新しい商品ではなく、話し方と集まり方を変える地道な取り組みでした。

第6章 ファンづくりを手渡す

2014年9月24日、キリンビールがヤッホーブルーイングとの資本業務提携を発表します。キリンは星野リゾートの持ち株の一部を譲り受け、新株も合わせて、33.4%を持つことになりました。このとき、ヤッホーの従業員は105人です。

提携の中身を読むと、目を留めたくなる一文があります。ヤッホーは一部の製品の製造をキリンに委ね、原材料も共同で調達する。その一方でキリンは、イベントとインターネットを組み合わせたファンづくりなどのノウハウの提供を、ヤッホーから受ける。発表には、そう明記されていました。売り先に頭を下げて回っていた会社が、10年ほどで、ファンづくりのやり方を大手に手渡す側になっていたのです。

40人の宴から、4年後のことでした。

その後の歩みは、短くまとめられます。2016年の時点で11年続けての増収増益。2017年には、銀河高原ビールの全株式と工場などを譲り受けることが発表されました。2023年には、売上が20年で約20倍になったと公表しています。売上高そのものは公表していません。2018年、井手氏はその理由を、自分たちはまだ吹けば飛ぶような存在で、ひそかに成長したいからだと説明しています。2026年7月には、大阪・泉佐野市に新しい醸造所を開きました。2025年11月期には、売上高と売上総利益がともに過去最高になりました。従業員は2026年4月時点で223人。眠っていた店を一人で引き受けた2004年から、20年あまりがたっています。

値札にも、この会社らしい記録が残っています。2022年10月、同社は創業以来初めて、ほぼすべての商品を値上げしました。よなよなエールの希望小売価格は、1997年の発売から一度も変えていなかったのです。25年間の据え置き。

そして2026年10月、ビール、発泡酒、新ジャンルの酒税が一本化されるのに合わせて、同社はよなよなエールの缶を、税抜きの希望小売価格で9円値下げしました。酒税法の改正で生まれ、酒税の仕組みのなかでビールを流した会社が、今度は酒税の変わり目に値札を下げる側に回っています。

終章 社史の目で見ると

ヤッホーブルーイングの歩みを社史の目で読むと、残しておきたいものが三つ見えてきます。

一つめは、眠っていたものの記録です。楽天市場の店は、創業期に開いたあと担当者が去り、何年も手をかけられないままでした。会社を立て直した道具は、新しく生み出されたのではなく、担当者が去ったあとも社内に残っていたのです。いつ、何のために始め、なぜ手を止めたのか。そうした記録が残っていれば、次の世代は会社の中にある「眠っている店」を、もっと早く見つけやすくなります。

二つめは、どん底の具体的な場面です。前年比80%という数字だけでは、あの時期の重さは伝わりません。社員が自分の手でビールを排水溝に流していたこと。朝礼で誰も話さなかったこと。そうした場面があってはじめて、のちにチームづくりを最重要の課題に据えた判断の意味が読めるようになります。

三つめは、外から届いた1通の手紙です。ロッカーに眠っていた三木谷氏の手紙は、それ自体は何の力も持っていませんでした。けれど、それを見つけた人が読み返したとき、会社の向きが変わります。社外から届いた言葉を、届いた日付ごと残しておくこと。それは、いつか誰かが読み返すための準備です。

あなたの会社の「そのとき」は、いつでしたか。

会社の歩みを、その理由まで読めるかたちで残しておきたい方は、KATARUの読みもの(https://kataruai.com/shiryo/)もあわせてご覧ください。

参考にした公開情報

株式会社ヤッホーブルーイングの発表

提携先・公的機関の資料

報道・インタビュー

この記事は、noteの連載「そのとき、会社が動いた。」にも掲載しています(noteで読む)。

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公開日:2026年10月15日 KATARU(運営 ミダスマーケティング)